経営危機
1982年 東京
東京銀行の凋落
東京銀行は元々「国内業務をしてはいけない代わりに、海外での取引については国が全面的に支援する」という銀行であった。そのため支店を置いている国の数ではダントツの1位である。
しかし三菱や住友などの国内でもトップレベルの力を持つ銀行が海外取引に参戦し、非常に厳しい立場になる。
それでも国の支援もあり1990年までは海外取引の首位を守ったものの、その凋落は誰の目にも明らかだった。
外国為替銀行法の改正
1972年に法改正があり、海外との取引が一般企業にも広く認められるようになった。
諸説はあるものの、大蔵省が東京銀行による支配を諦めたことを表明した行動とも取れる。
貿易摩擦
この時代の日本は貿易で凄まじく利益を出していた。特にアメリカでは対日貿易に対しての不満が高鳴り、不買運動や排斥運動にまで発展する。そのような中、日本政府や大蔵省は東京銀行に海外の投資を押し付け、海外に対して「うちも損してます」アピールをした。
住友商事
住友系の商社。戦前は(物産や商事と比べると)そこまで力は持っていなかったが戦後に急成長。東京銀行の取引を脅かすようになる。
綺麗な経営
東京銀行は当時としては異常とも言えるほどリベラルな社風であり、総合職の女性行員も非常に多かった。ただし当時の社会的には清廉潔白な人間よりも、法律ギリギリでも利益を貪る人間が重宝されるのは間違いなく、その辺りも東京銀行の弱点になってしまっていたのは間違いない
支店制限
当時の銀行は法律によって厳しく制限されていて、支店を増やすだけでも色々と大変だった。
住友のやり方
1965年 大阪
平和相互銀行
東京を中心に展開していた銀行。
「闇の紳士」なんていう中二病っぽい名前を使っているが、政治家の裏金、右翼団体に暴力団、さらには水商売御用達という色んな意味でブラックすぎる銀行であったため、本当に「闇の紳士の貯金箱」と呼ばれていた。
最終的に1986年に住友銀行に吸収合併された後、わずか半年で住友残酷物語と呼ばれる大粛清が行われたとされる。
ただし、河内銀行も平和相互銀行の件も「住友嫌い」な人が勝手に流した噂とされ、実際はそこまで粛清されていない。
ちなみに水商売御用達であったため「日中に銀行に行けない」という顧客が多く、日本初の夜7時まで営業するサービスを始めた銀行でもある。このサービスを平和相互銀行の次に取り入れたのは2002年に誕生した「りそな銀行」であり、平和相互銀行は50年近く時代を先取りしていたことになる。