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「本当に好きなら〇〇するはずだ」という脅迫

お前は愛していない!という脅迫

このような理由から、私は「本当に好きなら〇〇するはずだ」論が好きではありません。

これは恋愛に限った話ではなく、趣味や仕事にも言えることでしょう。

例えば「本当に作品が好きなら、アンチが何を言っても変わらないはずだ」というようなことを仰る方がいらっしゃいますが、これもまた同じ。

何をもって「本当に好き」とするかはともかく、仮に「本当に好き」だったとしても影響を受けることは十分にあり得るのです。

作品を楽しめるかどうかは本人の作品への愛も重要ですが、それ以外にも「精神的余裕」「時間的余裕」など様々な要素が複雑に絡み合うことでしょう。

「すごく好きな作品だったのに、精神的に参ってしまって楽しめなくなった」ということはよくあることなのです。

 

「本当に好きな仕事なら、どれだけ辛くても耐えられるはずだ」も同じ。

感動を食べて生きていけるなら、飢饉で人は死にません。

 

つまり「本当に好きなら〇〇するはずだ」と言う人は「相手の愛」を否定したいだけなのです。

「〇〇をしないということは、お前の愛は欠けている! だからお前は〇〇をすることで愛を証明しろ!」と。

そう言いたいだけなのです。

これを脅迫と呼ばずして一体何と呼べば良いのでしょうか?

本物以外に価値はない人はカニカマを食わないのか?

カニカマ。

カニっぽいカマボコ。

略してカニカマ。

皆様もご存知の通り、カニカマはカニでは御座いません。

そういう意味では「カニカマ」は間違いなく偽物でしょう。決して本物では御座いません。

しかし、それではカニカマには価値がないのでしょうか?

私はそうは思いません。

カニを買えない方にとってカニカマは、お手軽にカニの味を楽しめる素晴らしい食品で御座います。

本物でなければ価値はない、というのはいくらなんでも偏りすぎた価値観でしょう。

 

ところがこの話は納得いただけても、これが人間関係になると途端に偏ったことを仰る方がいらっしゃるのです。

その代表例が「本物の友達以外価値はない」という理屈。

そもそも「本物の友達」とは何かという問題も御座いますが、それを抜きにしてもその考えは極端すぎる考えであると私は思います。

困った時には助けてくれないけれど、普段は一緒に飯を食って笑い合える偽物の友達にも、それはそれでそれなりの価値があることでしょう。

確かにそれは本物の友達ではないかも知れませんが、偽物には偽物なりに価値があるのです。

 

これは趣味や仕事でも同じこと。

確かに理想論を語れば「本当に好きなことを趣味にして、本当に好きなことを仕事にする」ことこそが理想かも知れません。

しかし、特に趣味に関して言えば「本気ではないけど、そこそこ好き」くらいに楽しむことに何の問題があるのでしょうか?

「本気で好き」以外は認めない。

それは完全なる暴論です。

「そこそこ好きだけど、みんなから強く否定されたら揺らいじゃうくらいの好き」の方が圧倒的に多いことでしょう。

しかしたとえ本当に好きではなかったとしても、そこそこ好きであることでそこそこに楽しめていたことは間違いありません。

それを「本当に好き以外は認めない!」という理屈で、相手のわずかな楽しみを奪うことに一体何の意味があるというのでしょうか?



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