その男はモテなかった。
いわゆる「いい人止まり」と言われ続けたその男は、四十を過ぎるまで女性の一人も口説けたことがないらしい。客観的に見ればそれは彼の勇気の無さや行動力の無さが原因であるような気もするが、そんなことは彼にとって重要なことではないのだ。思春期の頃から女性というものに憧れ続けた彼にとって、ただの一人も自分のことを愛してくれなかったということだけが重要なのである。
もちろん若い頃から彼は彼なりに努力はしていた。だがその努力が足りなかったのか、それとも見当違いの努力をしていたのかは分からないが彼の努力が実るまでには多くの時間を要することになる。少なくとも二十代三十代という時間の中で、彼の努力が実を結ぶことはなかったのだ。
しかし四十歳の誕生日を迎えるか迎えないかの頃、彼の努力はついに実を結ぶことになる。
三十代後半で会社から独立した彼は会社を立ち上げ、そして成功したのだ。その成功は彼に多くの富をもたらすことになる。少なくとも都心のタワーマンションの最上階を気軽に買えるくらいには彼は豊かになったのだ。
だが、残念ながらその成功は彼にとって遅過ぎた。四十になり昔ほど体は動かない。そしていつの間にか彼の心の中にあったはずの純粋に恋愛を楽しむような綺麗な心は失われていた。
多くの人が恋愛を楽しむように、彼もまた恋愛を楽しみたいだけだった。そのために彼は独立し、金を稼いだ。
しかし、彼にとっては遅すぎた成功だった。
それなりに多くの女性が彼の元に集ったが、その女性を口説く体力も気力も彼の中にはもうない。
彼の心の中には既に復讐心しか残っていなかったのだ。
悪魔は笑顔でやってくる
独立をして成功するのは並大抵のことではない。
起業した会社のうち、10年後も経営を続けられている会社は10%にも満たないのだ。もちろんこれは経営を続けられているというだけであり、実際に成功と呼べるほど稼いでいる企業はこの数字よりも遥かに少ない。
そんな世界で生き残り、そして成功した彼は間違いなく優秀と言えるだろう。
だからこそ、そんな彼が復讐に走ったとして、暴力や詐欺のような愚かな方法を取ることは決してない。もっと優秀で狡猾で、決して犯罪にはならない方法で彼は復讐を計画したのだ。
彼本人に確認したところ、これが誰のことを示すか分からない形であれば公開しても良いということだったのでその方法をここで公開しようと思う。
彼は今、パパ活のパパをしている。
ただし彼がパパになる女性は8つの条件があった。
- 大学生であること
- 比較的きちんとした東京の大学に通っていること
- 極端に擦れていないこと
- 一人暮らしであること
- 地方出身であること
- 美味しいものが好きであること
- 一般のアルバイトをしていること
- そこそこ可愛い
この条件だけ見れば、成金おじさんがいかにも選びそうな条件だろう。いくつか疑問が残る条件もあるが、要するに「比較的きちんとした家庭で育ち、地方からそこそこの大学に進学したものの、アルバイト感覚でパパ活に興味を持った女性」である。基本的にはそんなに不思議な条件ではない。
だが彼の目的は女遊びではなく復讐だ。港区に腐るほど存在するスケべなおじさんではない。
そのため彼は「性交渉」を一切要求しないのだ。ただ一緒に食事をし、お金を渡す。誕生日であればブランドバッグを買い与え、時には海外旅行にも連れていったそうだ。
それでも彼は性交渉を要求しない。それどころか手も繋いだりしないのだ。終始ニコニコしていて、女性の願いを大体なんでも叶えてあげる。時には社会人として相談に乗り、時にはパパとして高価なプレゼントをする。それでも彼は性的なことを一切要求してこないのだ。
この条件がパパ活において破格の条件であることは間違いない。性交渉があるパパ活はハードルが高いが、彼の場合は本当に食事だけでOKなのだから飛び付かない人の方が少ないだろう。具体的にいくら渡していたのかは分からないが諸経費も合わせれば毎月100万円近い金を使っていたのは間違いない。
しかし、彼にとってこれは復讐である。間違っても若い女の子にお金を渡すのが大好きなおじさんではない。
彼の復讐はある日突然やってくるのだ。
失われた青春
一人暮らしの大学生が毎月何十万ものお金を手に入れたらどうなるだろうか。
最初のうちはそれでも謙虚に過ごす人が多いだろう。それまでと同じレベルの生活をして、残りは将来のために貯金をしようと誰もが最初は決意する。しかしその決意は得てして長くは続かない。2ヶ月3ヶ月と続くと人間は慣れ、その数十万という大金の価値を見失うのだ。
その後の行動は想像に難くない。一人暮らしの大学生の家賃はせいぜい5〜6万円だが、毎月何十万という大金が入ってくると大抵の人間は10万20万の家に住み始める。そんな高価な家に住んでもまだまだお金は残るのだ。ちょっとくらい贅沢をしてもバチなんて当たるはずがない。もしもパパからの援助がなくなったら、その時は元の5万の家に引っ越せばいい。誰もがそうして地獄への道を歩み始めてしまうのだ。
彼は女性がその道を歩むことを推奨した。時には良いマンションを見つけ出し、良い不動産屋を紹介し、彼女たちが高い家に住めるように便宜を図ったりもしたらしい。そうやって彼は彼女たちが地獄への道を歩むように進めたのだ。
また彼は彼女たちとの食事の時にはとにかく美味い店を選び続けた。2人で数万円するような店、紹介がなければ入れないような店、ミシュランに載っているような店。とにかく美味しくて豪華な店に女性を連れて行ったのだ。
プレゼント選びもまた抜かりがない。ルイヴィトンだかエルメスだかは分からないが、彼は高価なプレゼントを事あるごとに彼女たちに贈り続けたのだ。
想像して欲しい。
ある日、パパ活のパパから貴方は100万円はするであろうバッグをプレゼントされた。貴方が昔から欲しかった憧れのバッグだ。
そんなものをプレゼントされた後、本命の彼氏が必死でアルバイトをして買った3万円のバッグを見て、貴方は心の底から喜ぶことができるだろうか。
想像して欲しい。
日本一と名高い名店にパパと行った後、本命の彼氏が必死で選んでくれた美味しい格安レストランに行って、貴方は心の底から喜ぶことが出来るだろうか。
想像して欲しい。
家賃20万円の家に住み慣れてしまった後、駅から遠いユニットバスの家で本当に満足できるだろうか。
綺麗事ならどれほどでも言える。だが100万のブランドバッグを前にして、3万円のバッグを素直に喜べる人間は残念ながらほぼいない。どうしたって比較をしてしまうのだ。
もしもこれが性的関係を要求してくる気持ち悪いおじさんから貰った100万円のバッグであれば、もしかしたら彼女たちは3万円のバッグに本気で喜べたかもしれない。だがこのバッグをくれたのは性的関係を一切要求してこない優しいおじさんなのだ。異性としての愛は無くとも、そんなおじさんのことを心の底から嫌いになれるような人間は存在しないだろう。
彼の復讐の第一幕はこうして始まる。
彼は何もパパ活をしている女性たちから愛されたいわけではない。
本来楽しかったはずの本命彼氏とのデートを台無しにしたかったのだ。
本来魅力的であったはずの同世代の男性を、魅力的ではなくしたかったのだ。
彼がどれほど望んでも得られなかった青春を、彼女たちから奪いたかったのだ。
だが、彼の復讐はまだ終わらない。
汗水垂らして働けない
本来彼女たちは時給1000円程度で汗水垂らして働く真面目な女性であった。
だが、ある日突然ただ食事をしているだけで数十万円を得ることが出来るようになってしまう。そんな経験をしてしまった女性に今更時給1000円で働けと言っても、そうそう我慢が出来るはずもない。
宝くじで高額当選をした人間はその7割が仕事を辞めるというデータがある。残念ながら人間とはそういう生き物なのだ。
だからこそ彼女たちがアルバイトをやめてしまうことに驚くことはないだろう。
これが復讐の第二幕。
同世代と金銭感覚が全く合わなくなってくるのだ。
同級生が何十時間と汗水垂らして稼いだ金の何倍もの大金を彼女たちはただ美味しい飯を食っているだけで稼いでしまう。どれだけ気をつけていたって金銭感覚はズレてしまうのだ。
3,000円節約するために新幹線ではなく夜行バスを使うような同級生の感覚を彼女たちは失っている。何せ彼と旅行に連れて行くときはいつだってグリーン車だからだ。
LCCの最安便を使うために羽田空港のロビーで一晩を明かすような同級生の感覚を彼女は失っている。何せ彼と海外旅行に行くときはいつだってファーストクラスだからだ。
金銭感覚のズレは人間関係に間違いなく亀裂を走らせる。彼女は同級生と価値観が合わないと考え始め、同級生たちもまた彼女とは価値観が合わないと考えるようになるのだ。
そうして彼女たちは同級生の間で徐々に孤立を始めていく。より正確に言えば多くの場合において”彼女たちの方から”同級生とは価値観が合わないと言って自ら距離を生み出していくのだ。
生活レベルは下げられない
メジャーリーグで活躍したプロ野球選手は、引退後5年以内に約80%が自己破産をする。
宝くじで高額当選をした人間もまた、その70%が破産をすると言われている。
そんな人間を見て、私たちは愚かな人たちだとバカにするが、それは私たちがその立場になっていないからに過ぎない。残念ながら人間は大金があれば使い、そして1度上げた生活レベルを下げることが出来ない生き物なのだ。
彼は彼女たちが贅沢に慣れ切ってしまった頃を見計らって、突然梯子を外す。
とは言えパパ活を辞めるだけでそれ以外のことは何もしない。賢いこの男は直接手を下すような愚かな真似は決してしないのだ。
パパ活を辞める時だって、彼は最後まで笑顔である。彼女たちが納得するような綺麗な言葉を並べて、最後まで優しいおじさんのまま彼は援助を打ち切るのだ。
ここから彼の復讐劇の第三幕が始まる。
援助がなくなっても、その女性はもう生活レベルを下げることは出来ない。
その上もう時給1000円で働くことも出来ない。
そして何よりも、贅沢を覚えてしまった彼女たちは彼氏が奮発してくれた1万円のディナーで、もう喜ぶことが出来ない。
生活の破綻が起こるのは誰の目にも明らかだろう。
悪魔の仕事
この状態からまともに社会復帰できる人間は少数である。
昨日まで都心の高級マンションに住んでいたのに、今日から駅徒歩15分でユニットバスの1Kに住めなんて言われても普通の人間にそんなことは出来ない。
そんな女性が辿る道は概ね決まっていることだろう。
まずは彼に援助の復活を求めるのだ。だが彼は決してそれには応じない。優しい言葉をかけ、応援していると口では言いながらも決して援助は行わない。しかし万が一、その女性が普通の生活に慣れそうになってきたら、彼は久しぶりに会いたいと言って贅沢を思い出させるのだ。
次に女性たちは真面目な道に戻ろうと努力を始める。しかし多くは続かない。飯を食べているだけで数十万を稼いでいた女性は、もう時給1,000円では働けないのだ。例え大学を卒業して会社員になったとしても、彼女の生活レベルを維持することはそうそう出来ない。
あとはもう転がり落ちるだけだろう。
彼と同じようなパパを探すがそんな男はそういない。どれだけ探したって彼ほど都合の良いパパなどそうはいないのだ。
それが分かれば後は早い。生活レベルを下げられない女性が行き着く先はいつの時代も風俗と相場が決まっている。
最初の条件に「そこそこ可愛い」というものがあったのはこのためだろう。そこそこ可愛い女性であれば、風俗の仕事に就けないということはまずない。体と精神を切り売りして、彼女たちはようやく前の生活レベルを維持できるのだ。
彼はそうなってしまった女性から「ご飯でも行こうよー」という連絡が来るのが何よりの楽しみだそうだ。彼女たちは彼こそが地獄へ叩き落とした悪魔であることにすら気がついていないことも多い。
そのLINEを見ながら酒を飲む時間が最高の愉悦であると彼は言った。
彼が言うにはこの方法で1人の女性を潰すのは1,000万円もあれば十分らしい。私たちにとっては大金だが、年間数億を稼ぐ彼が”彼の趣味”に使う金額としては大した額ではないだろう。
本来、同級生と素敵な青春を過ごし、それなりの企業に就職して、魅力的な男性と幸せな結婚するはずであった彼女たちが”たかだか1,000万円程度の金”のためにそれを不意にして地獄へ落ちることが彼にとっての復讐なのだ。
人間を裁き罰するのは神の仕事であり、悪魔は直接人間に危害を加えたりはしない。
ノアの方舟の洪水を起こしたのも、バベルの塔に雷を落としたのも、地獄の入口で人間を裁くのも、みんな神であって悪魔ではないのだ。
それでは悪魔の仕事は一体何か。
それは人間が神に裁かれるように堕落させることにある。
彼の行動の善悪をここで語るつもりはないし、私では彼も彼女たちも救うことは出来ない。
だが、彼の復讐とやらは紛れもなく悪魔の所業だろう。
何せ私は彼が笑みを絶やしたところを見たことがない。悪魔はいつだって笑顔で人間に近づいて来るのだ。
※この物語はフィクション……だったら良いなと私も思っています。