障害者を救わない
発達障害が周知されるようになり、”以前に比べれば”発達障害を持っている方への世間の対応は優しくなりました。
さて、このような現代において自分のことを「発達障害かも?」と思っている方が最も恐れることは一体何でしょうか?
彼が恐れているのは自分が発達障害であると突きつけられることだけではありません。
彼らが恐れているのは、自分が病院に行き「あなたは定型発達です」と言われることなのです。
だからこそ多くの方は病院に行けないのです。自分が発達障害であるという事実を受け入れることも怖いのですが、それと同じかそれ以上に自分が定型発達であると言われてしまうことが怖い。
もしも自分が定型発達であると分かってしまったら、自分の苦境を病気のせいに出来なくなってしまうことが怖い。
障害者ではないと分かった自分に周囲が手を貸してくれなくなることが怖い。
自分の苦しみが病気のせいではなく、自分の能力によるものであると突きつけられることが怖い。
さて、それでは今回のご質問に戻りましょう。
ご質問者様は「あの人は発達障害だから優しくしてあげよう」と言うことは失礼だと感じているようですが、それは確かに正しい判断でしょう。
医者でもないご質問者様が勝手に障害者認定してしまうことが良いことだとは私も思いません。
ですがそれならば「あの人は発達障害だから優しくしてあげよう」ではなく「あの人は困っているから助けてあげよう」と言えば良いのです。
ご質問者様の周囲の発達障害者のような方が本当に発達障害なのかどうかは私にもご質問者様にも分かりませんが、その人が困っているということは間違いないでしょう。
それならば彼を助ける理由は「彼が困っているから」というものだけで十分で御座います。彼が発達障害であろうがなかろうがそんなことはどうでもいいでしょう。
困っている人がいるから助ける。人が人を助けるのにそれ以外の理由は必要ありません。
ご質問者様は彼らが障害者だから助けようと思ったのでしょうか?
彼らが障害者でないと分かったら、救いの手を差し伸べないのでしょうか?
そんなことはないはずです。ご質問者様が彼らに救いの手を差し伸べたのは、彼らが困っていて見ていられないというだけの理由。
今回の記事のタイトル「障害者を救わない」というのはこのことで御座います。
私は障害者を救いません。私が救いたいのは困っている人だけで御座います。
困っていない障害者に手を貸す気はさらさらありませんし、障害者にとっても余計なお世話でしょう。
逆に困っているのであれば、定型発達者であろうが障害者であろうが手を貸せば良いのです。
さて最後に1つだけご質問者様にお伝えしたいことが御座います。
もしもご質問者様が周囲にいる「困っている人」を救わなくても、私は絶対に非難致しません。
ご質問者様の出来る範囲で良いのです。それに救うことでご質問者様の立場が危うくなるのであれば、ご質問者様は自分の身の安全を第一に考えてくださいませ。
いじめの加害者は罰せられるべきですが、いじめの傍観者に罪はないのです。いじめの傍観者も同罪だと仰る方は、戦争地帯にでも行って、その戦争を止める努力でもして下さいませ。