100円玉のイタズラ
私が小学生だった頃とあるイタズラをして母親から物凄く怒られたことを覚えています。
どんなイタズラだったかと言うと「学校の廊下に100円玉を置いておき、誰が拾うかこっそり監視する」というイタズラ。そもそもイタズラとしての体をなしているのかという疑問は残りますが、この話を夕飯の際に「A君がこれを拾ってポッケに入れた」と母親に言うと物凄く怒られたのです。
「お金を粗末にするな」という理由もありましたが、母親が怒ったのはその点だけではありません。では私の母親は一体何に対して怒ったのでしょうか。
母親は「悪意を芽生えさせるな」と怒ったのです。
お金を拾ってポッケに入れてしまったA君がやったことはいわゆるネコババに該当します。ネコババは日本では「遺失物横領罪」として刑法にも記載されている明確な犯罪です(刑法254条)
そういう意味ではA君が行った行為は確かに犯罪であり、逆に私は被害者ですらありますが、今にして思えば当時の私がやったことこそが「悪魔の所業」であると思います。
7つの大罪
人間は誰しも欲を持っています。
お金がほしい。
異性にモテたい。
偉くなりたい。
キリスト教ではこのような欲望のことを「7つの大罪(原罪)」として強欲・憤怒・嫉妬・色欲・暴食・傲慢・怠惰を定め、仏教では貪・瞋・痴の3つを人間の根源的な悪(三毒)としました。
こういった人間の根源的な欲望は消すことが出来ません。だからこそどちらの宗教もこういった欲望を克服することを人間の善としたのです。
当時小学生のA君がこういった概念を理解していたということはないでしょうが、一般的な道徳観として「お金は欲しいけど、ネコババはしちゃだめだ!」くらいの感覚は持っていたことでしょう。これは彼が「人間の欲」を克服しようと自制していたことに他なりません。
ですので私が何もしなければ、彼はネコババをすることはなかったでしょう。
しかし、その自制心を私が壊してしまったのです。
何もなければ自分の欲を自制できていた彼に対して「今ならバレずにお金が手に入るよ」と彼の欲望を目覚めさせてしまったのです。
頑張って自制して理性的に生きている人間の目の前に、わざと欲望の塊を置き、堕落するように唆した。
キリスト教ではこのように「人間を堕落させる存在」を「悪魔」と呼びます。仏教でもまた同じ。だからこそ私がやったことは「悪魔の所業」なのです。
悪魔は人間を殴りません。
人間に甘言を吹き込み、その心に邪悪な欲望を芽生え、人間が悪の道に進むように誘うことこそが悪魔の所業です。
だから地獄に悪魔はいません。
悪魔の仕事は人間を地獄に堕とすこと。堕ちた人間に悪魔は用がないのです。
むしろ堕ちた人間に用があるのは神の方。
地獄に落ちた人間に罰を与えるという用事があるのです。
仏教で有名な閻魔大王は神側の存在ですし、キリスト教の地獄では悪魔は人間と一緒に罰を受ける側の存在。地獄で人間を罰している悪魔などいないのです。
地獄に仏といいますが、そういう意味では地獄に仏がいてもそこまで不思議ではないかもしれません。
この最たる存在がキリスト教における悪魔の最高位サタン(ルシファー)です。
サタンはいろんな場面で人間を誘惑していた悪魔ですが、特に旧約聖書の「失楽園」という話が有名でしょう。皆様も内容を聞けば「ああそれね」ときっとなるはずです。
【失楽園】
エデンの園に住んでいたアダムとイブには1つだけ禁止されていることがありました。それはアダムの園にある林檎を食べてはいけない、ということ。
ある日、アダムの園に一匹の蛇が現れてイブにこう言いました。
「リンゴまじうまいっすよ。大丈夫大丈夫。神とか見てないからいけるいけるって」
イブはその言葉に唆されリンゴを口にすると、神は怒り楽園であったエデンの園からアダムとイブを追放しました。
この蛇がサタンと言われています。
人間にはそもそも欲望の心があるのです。浮気もまたその欲望の心であると言えるでしょう。
しかし人間はそれが悪だと分かっているからこそ、理性で一生懸命自制をするのです。そしてその自制を壊すような行動をするのは悪魔が行うこと。
私はキリスト教徒ではありませんし、皆様に対してキリスト教を推奨するつもりもまたありません。ですが、彼らの言葉から学ぶべきことがあることもまた事実であると考えています。
「主たるあなたの神を試みてはならない」
少し分かりにくい言葉ですので現代風に訳すと
「神のことを試しちゃダメ」
という意味です。もちろん正式にはもっと複雑な解釈があるのですが、今回は分かりやすくこのように訳させて頂きました。
たしかに(キリスト教的には)神は万能なので、イエスが崖から飛び降りても神はイエスを救う奇跡を起こしてくれたかもしれません。
しかし、もしもイエスがここで神の奇跡を信じて崖から飛び降りてしまったら、これはメンヘラな女の子が彼氏に対してよく行う行動と変わらないのです。
「わざと嫌われるようなことをして、それでも許してくれる彼氏に安心をする」というような行動を繰り返す女性がいらっしゃいますが、まさにこれがそれに該当するでしょう。
つまりこれは「本当に彼は愛してくれているのか?」と試しているのです。
例えば「深夜に「今すぐ会いたい」と急に呼び出す」のは「深夜に急に呼んでも駆けつけてくれるだけの愛情があるのか?」と試しているということに他なりません。
駆けつけてくれなければそれまでですが、仮に駆けつけてくれたとしても、そんな女の子が次に考えるのは「でも、もう少し強く嫌われようとしたら彼は許してくれないかもしれない」です。
そうしたら今度は前回よりも強く嫌われるようなことをして、それでも許しを願うことでしょう。
そしていよいよ彼氏がその行動に耐えられなくなったとき、その子は
「ああ、この程度で壊れてしまう愛情でしかなかったのか……」と安心をする。
最初は彼氏も愛していたのでしょう。
しかし試されたら、いつかはその試験に落ちてしまうのです。
無限に上がり続けるハードルを永遠に超えることが出来る人間など存在いたしません。