【ご質問】
「いじめの傍観者は悪いのか」と聞かれたときに「私は悪いと断言できないが、悪くないとも言いきれないと思ってる」と答えたところ「知人から中途半端すぎる、臆病に思える」と言われました。
自分のヘタレさを正当化しているように見えても仕方がないし、自分でも言い訳がましく思えてきましたが、それでも傍観者がいじめを助長するというのも正しいが、止めにいくのもかなり難しいことだと思っています。
また、悪いとも悪くないとも断言できません。 これらの意見を言うと、中途半端な考えだ、自分を正当化しようとしてる、と思われるかもしれませんし、自分でも思います。 上野さんから見て、この考えは半端で臆病でしょうか。また、どうすれば臆病さを少しでも弱くできるでしょうか。
本回答は現時点でイジメに遭っている方が読むことをお断りいたします。
【回答】
ご質問誠に有難う御座います。
私は「傍観者も同罪だ」と決して思いません。
後ほど説明をしますが「傍観者も同罪だ」と大嘘を付いている方が間違っているとは思いませんが、本心で「傍観者も同罪だ」と言う方はいかがなものかと思います。
「傍観者は助けるべきだ」ならまだ分かりますが、傍観者と加害者を同罪と一括りにしてしまうのはあまりにも安直ではないでしょうか。
皆様の中にそんな方がいらっしゃらないことを願うばかりで御座いますが、もしもそんなことを本気で思っている方がいるのであれば、そんな方にこうお伝えしなければなりません。
貴方こそがいじめの加害者ですよ、と。
いじめの原因は被害者にもある
いじめ問題が解決の糸口さえ掴めずにいる最大の原因は「いじめ被害者には原因がない」という信仰にも似た綺麗事であると私は思っています。
「被害者には原因がない」と念仏のように唱えて、被害者がいじめに遭わないための対策をなにも講じない。それは泥棒が悪いからと言って家に鍵をかけないようなものでしょう。
断言しますがいじめの被害者にも原因は御座います。
頭が悪いのか、顔が悪いのか、性格が悪いのか、コミュニケーション能力に難があるのか、趣味が同世代と合わないのか、たまたまイジメやすいところにいたのか、それとも別の何かなのか。
なにが原因でイジメ被害者になったのかは分かりませんが、いずれにしても被害者にも原因があることには間違いありません。
それではイジメ被害者には原因があると言って、イジメ被害者が悪いかと言えばそんなことはないでしょう。
被害者にないのは原因ではなく、責任です。
原因は間違いなく被害者にもあるのです。
私が中学生の頃、クラスにH君という少年がおりました。
失礼ながら彼は頭が悪かったと言わざるを得ません。勉強は全くと言っていいほど出来ませんでしたし、話をしてもしても何を言っているか分からない。そのくせ、やたらと人の輪に入りたがる。
そんな彼がイジメの対象になったのは偶然ではないでしょう。何千回中学生活をやり直しても、加害者グループは間違いなく彼をその対象に選ぶのは間違いありません。間違ってもクラスで1番体が大きいS君が選ばれることはないのです。
H君は頭が悪かった、その上コミュニケーション能力にも問題があった。そんな彼がイジメの対象に選ばれたのは必然であり、彼が選ばれたのは彼の能力によるものであると言わざるを得ません。
しかし、それでは彼に責任があるのかといえば、そんなことは御座いません。
確かに彼は少なくとも勉強とコミニュケーション能力という点について劣っていた。しかしそれは単に劣っていたというだけの話であり、それを理由にしてイジメていいはずがありません。能力が低いという理由で加害行為を取るなんてことは許されるべきではない。
原因と責任を混同してはいけないのです。
H君に原因の一端はあるのは間違いありません。しかしH君が悪いわけではないので御座います。
責任と原因の分離
- イジメの原因はイジメられる側にもある
- ただし原因があったとしても、それが悪ではない
- 原因と責任を分けて考える必要がある
イジメの定義
例えばこんな状況を考えてみましょう。
太郎君は花子さんに告白をしました。
しかし残念ながら告白は失敗。
太郎君は花子さんに振られたショックで不登校になりました。
実はこれ法的にはイジメに該当します。
あまりにも理不尽な感じがするのは分かりますが、イジメの定義を考えるとこれがイジメであることがお分かりいただけることでしょう。
イジメの定義は諸説あるものの、いじめ防止対策推進法とそれに基づきイジメの調査を行っている文部科学省の定義を採用させて頂きます。法的な定義なのでこれが最も公平かつ中立であると私は思います。
この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
いじめ防止対策推進法第2条より
本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形 式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査における定義より
難しいことが書いてありますが、要するに「被害者が辛かったらイジメ」ということで御座います。
この定義で考えれば、先程の太郎君と花子さんの例もまたイジメということができるでしょう。
太郎君は花子さんに振られたことによって精神的に苦痛を感じているのです。しかもこれを「いじめられた生徒(太郎君)の立場」から見るのですから、少しの疑いの余地もなく太郎君は花子さんによってイジメられたと言わざるを得ません。
もちろんこれは花子さんからすれば溜まったものではないでしょう。
勝手に告白してきて、それを断ったら勝手に落ち込んで、勝手に不登校になった。それなのに自分がイジメの加害者と呼ばれるなんて理不尽極まりありません。
しかし法的には太郎君は間違いなくイジメの被害者であり、花子さんはイジメの加害者になってしまうのです。
被害者がいればイジメ
- 被害者が辛かったらイジメ
- 相手の行為の善悪は関係ない
- そのため理不尽に加害者になることがある
勧善懲悪が大好き
それではこの問題をどう捉えるべきでしょうか。
私はこの問題もまたイジメであると考えております。そして被害者は太郎君であり、加害者は花子さんであると考えます。
おそらく反論があることでしょう。しかし私が「これはイジメである」と考える理由をお聞き頂ければ幸いです。
その理由は大きく2つ。
1つ目はいじめ防止対策推進法の目的。
2つ目は責任と原因の分離で御座います。
それではまずイジメ防止対策推進法の第一条。この法律の目的についてご覧くださいませ。
この法律は、いじめが、いじめを受けた児童等の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせるおそれがあるものであることに鑑み、児童等の尊厳を保持するため(以下略)
この法律はなぜ存在しているのか。
それはイジメ被害者を救済するためで御座います。
より正確に言えば、児童の「教育を受ける権利」を守るためであり、児童の尊厳を守るためで御座います。
児童を守ることが目的であり、決して加害者を断罪するためのものでは御座いません。
あくまでも児童の権利を守ることが目的であり、加害者を断罪するためのものではないのです。
それでは先程の太郎君の問題を考えてみましょう。
太郎君の例は彼が勝手に告白をして撃沈しただけの話に過ぎません。誰に責任があるというわけでもありませんが、もしも責任があるとすれば太郎君でしょう。少なくとも原因を作ったのが太郎君であるのは間違いありません。
しかし原因や過程はどうあれ、太郎君は不登校になってしまいました。つまり太郎君は「教育を受ける権利」を行使できていません。さらに我々大人は「教育を受けさせる義務」を放棄していると言えるでしょう。
この権利の回復と義務の遂行こそがイジメ防止対策推進法の目的なので御座います。誰が悪いとか誰に責任があるとか、人を断罪するための法律では御座いません。
つまり太郎君は「責任ある被害者」と言えるでしょう。
どう考えても原因も責任も太郎君にあるのです。しかしどこに原因があろうとも、今この瞬間太郎君は権利を喪失していて、大人は義務を放棄している。だからこそこれはイジメであり、そして対策をすべき問題なので御座います。
また花子さんは便宜上加害者という立場になってしまいましたが、この加害者は便宜上のものに過ぎず間違っても花子さんを断罪したり、叱ったりするべきではないのです。
いじめは勧善懲悪の問題だけでは御座いません。
神話の時代から現代の漫画に至るまで、人間は勧善懲悪な物語を好んできました。勧善懲悪というのは簡単にいうと「悪い奴はぶっ殺せ!」という物語のこと。桃太郎もジャンプ漫画も基本的には勧善懲悪の物語と言えるでしょう。
この勧善懲悪というのがなかなかに厄介な代物で御座います。悪人を懲らしめると言えば聞こえは良いのですが、世の中の問題は必ずしも悪人がいるとは限りません。
さらに人間は勧善懲悪が大好きなので、問題が起こると悪者を必死に探して悪者を晒しあげます。
もしも悪者が見つからなかったらどうするか。それは見つかるまで探し続けるのです。
それでも見つからなかったらどうするか。それこそが今回の太郎花子問題で御座います。
「悪人はいなかった、故にこれは問題ない」
そう判断するのです。
加害者がいるとは限らない
- イジメ防止の目的は教育を受ける権利の回復
- 被害者に責任が場合でも権利の回復が最優先
- イジメに悪人がいるとは限らない
責任ある加害者は刑法犯に限るべきである
花子さんはイジメの加害者です。
しかし加害者だからといって悪というわけではない。少なくとも「告白を断る罪」なんていうものはこの国に存在いたしません。もしもそんな法律があるのであれば私は今すぐ橋本環奈さんに告白をするでしょう。
「加害者=悪」
「被害者=善」
「加害者=善」
「被害者=悪」
この4つの思い込みは全て間違っています。イジメには善や悪が必ず存在するとは限りません。しかし悪人がいなくとも被害があるのであれば、それは救済しなければならない。それこそがイジメ防止対策推進法で御座います。
しかしここまでの話は「悪人がいないイジメ」の話。
もちろん「悪人がいないイジメ」もあるということは「悪人がいるイジメ」も御座います。
それでは次の6つのイジメがそれぞれ「悪人がいるイジメ」かどうか考えてみましょう。
1)ボコボコに殴った
2)相手の物を隠した
3)悪口を流した
4)お金を脅し取った
5)業務連絡を伝えなかった
6)無視をした
恐らく1〜4は誰もが悪人がいるイジメとして分類することでしょう。5はイジメかどうか怪しくて、6はかなり意見が分かれることと思います。
それではこの差は一体何なのでしょうか?
それはそれぞれを刑法で考えると分かりやすいでしょう。
1)ボコボコにする→暴行罪
2)物を隠す→器物破損罪
3)悪口を流す→名誉毀損・風説の流布
4)お金を脅し取った→恐喝罪
5)業務連絡を伝えなかった→偽計業務妨害罪?
6)無視→刑法上該当しない
このように1)から5)は全て刑法犯で御座います。5)を偽計業務妨害と捉えるのはちょっと強引な気もしますが、まぁ児童にとって勉強は仕事みたいな物なので今回は多めに見ていただければ幸いです、大筋に影響は御座いませんので。
一方で無視をすることは刑法上問題ございません。もしも無視が刑法の犯罪行為であるのであれば、私たちは街中で誰にでも話しかけているタイプの方にも返事をしなければならないでしょう。
そしてこの点こそが「悪人がいるイジメ」かどうかの分水嶺であると私は思います。
もしもそのイジメ行為の中に刑法に該当する行為があるのであれば、それは「悪人がいるイジメ」であり、逆に刑法に該当しないのであればそれは「悪人がいないイジメ」である。
花子さんは太郎君の告白を断りましたが、刑法的な意味での犯罪行為は何1つしておりません。ですので花子さんは加害者ではあるものの罪はないので御座います。
しかし悪人がいようがいなかろうが、イジメ被害者の教育を受ける権利が侵害されている以上は対策が必要なのは間違いありません。
そのため悪人がいなくともイジメは救済するべきなのですが、それはあくまでも権利の回復を目的にするのであって、存在しない悪人を断罪するべきではないと私は考えます。
「悪人なきイジメ」にもしも悪人がいるとすれば、それは児童の学ぶ権利を守らず、教育を受けさせる義務を放棄した大人以外の何者でも御座いません。
悪人を罰するためではない
- イジメ防止の目的は教育を受ける権利の回復
- 被害者に責任が場合でも権利の回復が最優先
- イジメに悪人がいるとは限らない
傍観者はイジメである、しかし罪はない
告白を断った花子さんはイジメの加害者です。
結果として太郎君は教育を受ける義務を侵害されたのです。そのため我々大人は太郎君の権利回復に努めるべきでしょう。
しかし花子さんに罪があるかといえば、一切御座いません。花子さんは何にも悪くないのです。言い方は悪くなりますが、豆腐メンタルの癖に勝手に告白して勝手に落ち込んだ太郎君が全面的に悪いと言えるでしょう。
イジメには刑法犯に該当する「悪人がいるイジメ」と、刑法犯が存在しない「悪人がいないイジメ」の2つのタイプが存在するので御座います。
そしてイジメ問題が分かりにくいのは刑法犯と権利回復すべきトラブルを混在しているからではないでしょうか。
暴行、窃盗、恐喝はイジメではなくただの刑法犯で御座います。その問題をイジメと言って矮小化すべきではありません。
一方で花子さんのような例はただのトラブルで御座います。それはただのトラブルであり、そこに悪人はおりません。
それでは今回の本題に戻りましょう。
イジメの傍観者は同罪なのか。
私はこれに断固として反対します。
例えばA君がB君によって暴行されていた場合、B君は暴行罪の刑法犯でしょう。しかし傍観者はどう考えても暴行罪には該当しません。
ただしA君の視点で見ればB君も傍観者も自分のことを傷つけた人に違いはない。ですので傍観者はイジメの加害者で御座います。
しかしB君が刑法犯としての責任を負うべき存在であるのに対して、傍観者には一切の責任が御座いません。
A君とB君の間に発生していたのは刑事事件であり、A君と傍観者の間に発生していたのは責任問題のないトラブルである。
私はイジメをこのように考えているため、傍観者はイジメの加害者であるが、一切の責任はないと考えております。
もしA君の顔が気持ち悪過ぎて傍観者が不登校になったら、A君は加害者で傍観者が被害者になるのです。もちろんこの場合、A君に一切の責任は御座いませんが。
加害者が悪とは限らない
- 加害者=悪ではない
- 刑法犯ではない加害者は罰するべきではない
- 被害者に問題があっても救済する義務が大人にはある
権利回復が最優先
今回の回答の冒頭で、私は意味深なことを2つ言いました。
・「傍観者も同罪だ」と大嘘を付いている人間が間違っているとは思いません
・貴方こそがいじめの加害者です、と。
まず「貴方こそがイジメの加害者です」の方から解説させて頂きましょう。
「傍観者も同罪だ」なんて言われたら傍観をしていた方は心理的に大きく傷つくことでしょう。どう考えてもイジメです。さらに「被害者を助ける」という本来行う必要のない行為を相手に強要しているので強要罪に該当するかもしれません。どう考えてもイジメとしか言えません。
そもそも今回のご質問者様は「お前が悪い」とは言われておりませんが、もしもそれを言われていたとしたら、これほど酷い話はないでしょう。
「勇気がない」という理由でイジメを救えなかったということは「勇気という能力が欠如している」ということ。つまり相手は能力の欠如を罪として断罪したのです。
この理屈が通るのであれば「ブサイク(顔の能力が低い)」「頭が悪い(知力が低い)」という理由で断罪することが許されてしまう。世間ではそれをイジメと呼ぶのではないでしょうか。
イジメ被害者には「教室は社会のほんの一部。所詮は他人だから気にしなくていい」と言っておきながら、傍観者には「社会のほんの一部でただの他人に過ぎない人」の救済を要求する。そんな理屈が通っていいはずがない。
イジメ被害者は救済されるべきであるという社会通念を否定するつもりは一切ございません。しかし被害者を救済するために罪なき人間を断罪する行為はあまりにもひどいものであると思います。
次に「大嘘付きは嫌いじゃない」と言った理由について解説させて頂きましょう。
イジメ問題で最優先すべきは被害者の権利回復で御座います。そのことに一切の異論は御座いません。
そして被害者の権利を回復する手段として「あなたには何の原因もない。傍観者や加害者が悪いんだ」と大嘘を伝えることに一定の効果があると私は思っています。
被害者に原因がないというのも大嘘だと思っていますし、傍観者が悪いとは一切思わない。ですので「あなたには何の原因もない。傍観者や加害者が悪いんだ」という言葉は大嘘なのですが、それで被害者の権利が回復するのであればこの嘘は必要な嘘でしょう。
精神的に苦しんでいる被害者にイジメの構造論を説明しても意味がない。花子さんに振られた太郎君に「おめえの豆腐メンタルが悪いんだよ。勝手に告白しておいて何してんの?」と言ったところで彼の権利は回復しません。
真実など、どうでもいいのです。
そしてそれは文部科学省の言葉にも込められています。
個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形 式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする
文部科学省は真実を突き止める気なんてないのです。彼らは児童の権利回復を第一に考えている。だからこそ「いじめられた児童生徒の立場に立って」考えているのです。
もしも真実を突き止めることに重きを置くのであれば、こんな言葉は絶対に書きません。容疑者を呼ばずに裁判を行うようなもので御座います。冤罪の嵐で我々はいつでも犯罪者になれるでしょう。
しかし文部科学省は真実を後回しにした。
児童の権利回復のために。
真実を後回しにした。
私はそんな文部科学省の判断が極めて正しいものであると思います。勧善懲悪大好きな人間が存在しない悪人を作り上げさえしなければ。
権利回復が最優先
- 真実は二の次。権利回復が最優先
- 例え悪人がいなくとも、イジメは成立する
- 架空の犯人を作り上げてはいけない
英雄の末路
私は何もイジメを傍観しろと言っているわけでは御座いません。
止められるものなら止めるに越したことはない。そしてそんな正義感は讃えられるべきものであるとも思いますし、私は今でもイジメを見たら恐らく救うことでしょう。日本全体というマクロの視点で考えればイジメを止めるべきという意見にも賛成いたします。
しかし、もしも私に子供がいたら、私はイジメを止めさせるように推奨することは恐らく出来ません。その正義感を持っていてくれたら嬉しいと思う反面、親として危ない道を子供に推奨することは出来ないでしょう。
イジメを止めた英雄の末路は、決して輝かしいものではないのです。
次の標的になるというパターンもあるでしょう。しかしイジメを止められるくらい強い奴はそうそうイジメの対象になりません。
本当に起こる問題はそうじゃない。
被害者に懐かれることなのです。
イジメを止められたとして、被害者に友人が出来るかと言えば話は別。そもそも友達が出来るような状況ならそうそう簡単にイジメの被害者になったりは致しません。
イジメは止んだ。しかし孤独が癒やされたわけではない。そんなイジメ被害者が誰に救いを求めるかなんて考えるまでもありません
彼を救った英雄。そんな英雄は彼にとって救世主に見えることでしょう。
そして救世主は救世主であり続けることを強いられるのです。
体育の授業で2人組を作るとき、救世主は常に元被害者とペアにならなくてはなりません。
休み時間は元被害者がいの一番に救世主のところへ駆け寄ってくる。そして他の友達と会話ができない。
修学旅行の部屋は確実に元被害者と一緒です。
もしも被害者がもともと仲の良い相手であれば、それでも良いかもしれません。
しかしそうではなかったら?
別に好きでもないけど、むしろちょっと苦手だけど、可哀想だから救う。
そんな相手と学校生活のほぼ全ての時間を一緒に過ごさなければならない。
普通の児童にそんなことに耐えられません。
そして救世主はある日、耐えられなくなる。そして体育の時間に別の友人とペアを組む。
救世主は何も悪いことをしていません。被害者を救い、そして仲良くする相手を変えただけです。
しかしそんな救世主を見て、元被害者はどう考えるか。
多くの場合において裏切られたと思います。
彼のために最も貢献した救世主を次の加害者として、彼はまたイジメ被害者になるのです。
救世主は責任なき加害者となり、そして「いじめられた児童生徒の立場に立って」考えれば、自分を裏切った極悪人になるのです。
他のクラスメイトは、何一つ彼に貢献しなかったというのに。
救世主だけが彼を救ったというのに。
もちろん必ずこうなるとは言いません。
しかしこの可能性は十分に御座います。
なにせH君にとっての英雄は他ならぬ私。H君にとっての私は救世主であり、裏切り者のイジメ加害者であることでしょう。
英雄になるのはあまりにも危険であると言わざるを得ません。
イジメを救うのであれば、加害者はもちろんのこと、被害者にも誰が救世主か分からないように行うことを強く推奨します。
最後に1つ。
私は現時点でイジメられて苦しんでいる児童に、決してこんなことを言いません。
こんなことを言っても彼らの権利は回復しない。だから私は彼らに「あなたに原因はない。あいつらが悪人だ」と大嘘をつくのです。