ご質問
私にはセフレがいます。想像通り、私は彼のことが好きです。
それなのに「彼が私のこと嫌いなんだ〜」とか「彼は私に興味ないんだな〜」と分かると安心してしまいます。
彼と付き合いたいと思いますし、彼の彼女になりたいとも思っています。
なのに嫌われてると分かると安心してしまうのは何故なのでしょうか?
回答
ご質問誠に有難う御座います。
例えば山で遭難した時、コンクリートで舗装された道路に辿り着いたら安心することでしょう。
例えば家で不審な物音がした時、音の発生源がネズミと分かれば安心することでしょう。
例えば不審者に遭遇した時、コンビニに入った瞬間に安心することでしょう。
このように人間は不安な状況から解放されることで安心するもので御座います。ですのでご質問者様が「嫌われた」と感じた時に安心するのであれば、ご質問者様は「嫌われた」と分かったことで何かしらの不安から解放されていると考えるべきでしょう。
問題なのは一体なにから解放されたのか、ということ。
私はその原因が大きく3つ存在すると考えます。もしかしたら3つ全てから解放されているかもしれませんし、どれか1つから解放されただけかもしれません。しかしいずれにしてもご質問者様は3つの中の少なくとも1つの不安から解放されたことで安心をされたのだと思います。
間違えるかもという不安からの解放
大学受験当日。受験会場で最後の科目の試験が終了した瞬間、多くの受験生は安堵します。しかしよくよく考えてみるとこれは不思議な話でしょう。なにせ試験が終わっただけで合格発表はまだなのです。この時点で安心できる要素が一体どこにあるのでしょうか。
私はこの安心の原因は「間違えるかもという不安からの解放」であると考えます。
入学試験は間違えるかもしれない状況のオンパレードと言えるでしょう。なにせ設問1問ごとに正解と間違いがあるので御座います。AかBかで明確に正解があり、間違った選択肢を選べば不合格になってしまうかもしれません。そんな状況で決断を下すのは「自分は間違えるかもしれない」という不安を強く感じることでしょう。
しかし試験が終わった瞬間、受験生はこの「間違えるかもしれないという不安」から解放されるので御座います。なにせ試験はすでに終わっているのですから、ここから先は何をしたって合否は変わりません。つまりAを選ぼうがBを選ぼうが結果は同じ。間違った選択肢というもの自体が消滅してしまうので御座います。
相手に嫌われたと確信した時の安心感もこれと似た構造があるでしょう。
もしもまだセフレの男性に脈があるのであれば、ご質問者様の今後の行動によって付き合えるかどうかが決まります。それは希望があるようにも思えますが、言い換えれば「間違いを犯す可能性」が存在するとも言えるでしょう。
セフレから何かを言われた時、その返事で付き合えるかどうかが決まる。それはつまり「間違えるかもしれない」という不安があるということで御座います。
しかし嫌われたと分かり、付き合えないと確定すればもう間違える心配は御座いません。なにせ何をしたって付き合えないのですから、間違いというものが存在しないので御座います。
起こるかもしれない不安からの解放
過去を後悔する人間はいても、過去を不安に思う人間はおりません。人間は「これから起こるかもしれないこと」に対して不安を抱くのであり、すでに起こったことに不安を抱くことはないので御座います。
「嫌われた」と分かったことで感じる不安はまさにこの「起こるかもしれない不安」からの解放と言えるでしょう。確かに「嫌われた」と分かった瞬間は悲しいかもしれませんが、すでに嫌われた以上、また嫌われることはないので御座います。
もしも彼に嫌われているかどうか分からなければ「これから嫌われるかもしれない」という不安に苛まれますが、嫌われてしまえばこの不安に苛まれることは御座いません。
ジェットコースターも落ちる前の時間が1番不安なもの。ガタガタとレールを上昇し、いよいよ落ちるのではないかというその瞬間が不安であり、実際に落ち始めてしまえば恐怖こそ感じても、不安は感じたり致しません。
会えなくなる不安からの解放
今のご質問者様は彼に嫌われているとお考えのことと思いますが、現状でもセフレ関係は継続しているようですので彼と会うことは出来ているのでしょう。
つまり今のご質問者様は「嫌われているのに会えている」ということ。それではこの状況と「好かれているから会えている状況」を比較すると、どちらの方が不安を感じる状況と言えるでしょうか。
まずは「好かれているから会えている状況」を考えてみましょう。
この状況の場合「セックス」と「好意」の合計で「会いたい」というラインまで到達していることになります。その配分は分かりませんが、2つの合計で「会いたい」ラインまで到達しているということは、どちらか一方だけでは「会いたい」というラインまで到達しない可能性があると言えるでしょう。
例えば今後、相手に嫌われて好意の数値が0になればセックスだけでは「会いたい」ラインまで到達できないかもしれません。つまり「好かれているから会えている」という状況は、今後嫌われることで会えなくなる可能性があるということで御座います。
一方で「嫌われているのに会えている」という状況を考えてみましょう。
この場合、相手はご質問者様のことが嫌いなのですから、好意の数値は0になります。しかしそれでも会えているということは「セックス」がそれだけで「会いたい」ラインを超えていることになるでしょう。
つまり「嫌われているのに会えている」という状況は、ご質問者様のセックスに会えるだけの価値があるということの証明なので御座います。そしてそれは自分がなぜ相手と会えているかが極めて明確であり、またどれほど嫌われようともセックスさえすれば相手に会えるということの証明になっていると言えるでしょう。
この状況の場合、セックスの数値さえ下がらなければどれほど彼に嫌われようが「会えない」という最悪の展開になることは御座いません。ですので「好かれているから会える」という状況から「嫌われているのに会えている」という状況になることで、ご質問者様は「会えなくなるかもしれない」という不安から解放されるので御座います。
順序を逆転させるな
今回ご説明させて頂いたように「嫌われたら安心する」という心理は、何かしらの不安からの解放であり、それ自体が悪いというものでもないでしょう。
「間違えるかもしれない不安からの解放」も「起こるかもしれない不安からの解放」も「会えなくなる不安からの解放」も、どれも正しく現実を認識しているからこそ起こるものであり、自己肯定感が低いとか認知が歪んでいるという問題でも御座いません。むしろ嫌われた際にこういった不安から解放されたと感じられない方は優れたメンタルをお持ちか、もしくは何かしらの認知が歪んでいるとすら言えるでしょう。
ですので嫌われた際に安心してしまうということ自体を悩む必要は御座いません。この心理自体は別段実害もありませんし、むしろ安心している分、得をしているとすら言えるでしょう。
しかし、もしもこの心理が悪化して、その順序が逆転してしまったらこれは重大な問題であると言わざるを得ません。
「嫌われたから安心する」ではなく「安心するために嫌われる」
このように順序が逆転してしまうと、人に嫌われる行動ばかり取るただの嫌な奴になってしまいます。当然ですがほぼ全ての人から嫌われて人間関係は破滅してしまうことでしょう。