【ご質問】
初めまして。
会社に入ってから「そんな正論じゃ通用しないよ」と言われることが非常に多いです。
「正しいことだけじゃ通用しない」という理屈は分からなくもないですが、どうして正論はダメなのでしょうか?
【回答】
ご質問誠に有難うございます。
今回はご質問者様に「正論」とは何か、ということをお伝えさせて頂ければと思います。
さてそれでは早速話は脱線しますが第二次世界大戦について少しお話をさせて頂きましょう。
第二次世界大戦の原因
皆様は第二次世界大戦の原因が何かご存知でしょうか。
もちろんヒトラーがナチスを結成し、ポーランドに侵攻したというのは事実で御座います。これに対してイギリス・フランスがナチスに宣戦布告したというのが第二次世界大戦の開戦の流れであることは間違い無いのですが、それではそもそも一体なぜ「ドイツがポーランドに侵攻したのか」ということを考えると、その原因はヴェルサイユ条約に行き着くことでしょう。
ヴェルサイユ条約とは第一次世界大戦を終結させた条約であり、その内容は過酷としか言えないものでした。
「ドイツを絶対に許さないし絶対に再起させない条約」と言えば条約の内容の9割の説明がつきます。ちなみに残りの1割は「世界から戦争をなくす条約」なのですが、その後の歴史を見れば、ほとんど役にも立たなかったことは明らかでしょう。
さて、そんな「ドイツを死んでも許さない条約」ことヴェルサイユ条約でございますが、具体的にどのくらい絶対に許さない内容だったかということが如実にわかる事実を一つお伝えさせて頂きます。
1919年に調印されたヴェルサイユ条約で、ドイツは多額の賠償金を”外貨”で支払うことになりましたが、2020年現在でもその支払は厳密にはまだ終わっていないのです。
端的に言ってやりすぎました。あれから100年以上経っているのにまだ支払いが終わっていないのです。
この条約の結果ドイツ経済が壊滅。歴史の教科書でよく見かける「パンを買うためにお札をトラックに積む」ような状況になってしまったのです。
そのためドイツ国民は明日のパンのために死に物狂いになりナチスドイツを生むことになりました。
歴史に「もし」はありませんが、”もし”ヴェルサイユ条約がもう少し甘い条約であったなら、第二次世界大戦は起きなかったかもしれません。
逆に”もし”ヴェルサイユ条約の条文に「ドイツ人は無条件で全員殺す」という一文があったら、良し悪しはともかくとして、それはそれで第二次世界大戦は起きなかったかもしれません。
窮寇勿迫
それでは今回の本題に入りましょう。
今回のテーマはズバリ「窮寇勿迫」で御座います。これは「きゅうこうぶつはく」と読み、孫子の兵法に登場する言葉。
簡単に言えば「追い詰められた敵を攻めるな」という意味で御座います。
一見すると「可哀想だから追い詰めるな」という意味にも思えますが、そんな甘い言葉では御座いません。この言葉の意味は「追い詰めすぎると、色々とろくなことがない」という自分のための言葉で御座います。
ドイツの例が判りやすいでしょう。ドイツはそもそも第一次世界大戦で敗北し、十分に追い詰められておりました。
そこに決定的な追い討ちをかけるヴェルサイユ条約で追い詰めるとどうなるか。そんな約束は完全に反故にされ、再び戦争を仕掛けれるのです。
ちなみにこのヴェルサイユ条約で厳しい処分を下すことに反対していたのが、イギリス首相のロイド・ジョージ。
余談ですが私が個人的に一番好きな政治家で御座いますので、もしよければ名前くらい覚えて頂けると大変嬉しく思います。
さて「窮鼠猫をも噛む」と言いますが、ネズミにしても人間にしても追い詰めると相手は死に物狂いで戦いを仕掛けてくるのです。「そんな状況になっても誰も得をしないので、決して弱っているものを追い詰めるな」というのが窮寇勿迫の真の意味なのです。
正論にはこの恐ろしさが御座います。
そもそも正論なんて、大人なら誰でも知っているのです。
そうにも関わらず正論がまかり通っていないという場合、そこにはどう考えても”真っ当”ではない事情が存在するのです。
確かに真っ当ではないとは言え、事情があることは間違い御座いません。
その事情を鑑みない恐ろしさが正論には御座います。
例えば「彼氏が浮気をしているし、その上もDVをしてくる」という相談を皆様が受けたとしましょう。
そんなもの、どう考えたって「別れろ」としか言えません。そしてそれはおそらく正論でしょう。
しかしそんなことくらい、質問をされている方だって重々承知のことなのです。
そうにもかかわらずそんな相談をされるということは、そこには真っ当ではない事情があるからに他なりません。ようするに「だけど好き」とかそんな事情で御座います。
そんな方に対して「別れろよ」と言ったら、そんなもの相手に響くわけがありませんし、相手から「こいつに相談しても無駄」と思われることでしょう。正論は正しいかもしれませんが、正論が何の役に立っていない良い例でしょう。
これは恋愛相談程度の話なので、ここから大規模な戦争に発展することはないでしょうが、もっと複雑な問題で正論を振りかざしたら、問題が解決しないばかりか相手が死ぬ気で食い下がってくるのは間違いありません。
相手を正論で追い詰めてはいけないのです。
世の中の人間はみんな正論くらい知っています。それなのに正論が通じないのであれば、そこには真っ当ではない事情があるからに他なりません。
真っ当にせよ真っ当ではないにせよ、そこに事情があるのであれば相手は正論で折れませんし、正論を振りかざしてくる人間を死に物狂いで攻撃してくるに決まっています。
正論は相手の逃げ道を奪い、死に物狂いにさせてしまう愚策です。
正論が正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでも良い話に過ぎません。
正論で追い詰めても誰も何も得をしない。待っているのはお互いの壊滅で御座います。
正論を振りかざし、相手を追い詰めていいのは、相手を全面戦争で徹底的に叩き潰す予定の時だけ。
敵を一人残らず殺すつもりなら、正論を振りかざしても良いでしょう。
例えば同じく第二次世界大戦の中で、1942年に日本がアメリカとの戦争に突入した原因は「ハルノート」というコーデル・ハルという政治家が提案した交渉が決定的でした。
これは正論かどうかはともかく日本を徹底的に追い詰める内容でしたが、そもそもアメリカは「日本が追い詰められて、アメリカに攻撃を仕掛けること」を望んでいたからこそ、この追い込みを行ったのです。
逆に太平洋戦争後の統治がヴェルサイユ条約と比較すれば極めて甘かったのは「追い詰めると何をしでかすか分からない」ということをきちんと理解していたからではないでしょうか。
冷戦という事情もありましたが、それでも追い込みすぎはダメということを歴史から理解していたのだと思います。
繰り返しになりますが、正論は相手の逃げ道を潰し相手を死にものぐるいにさせる愚策中の愚策です。相手を潰すことが出来るかもしれませんが、こちらもまた多大な被害を被ることを避けては通れない。それどころかこちらが壊滅的な被害を受けて叩き潰されてしまう可能性だって十分にあるのです。
三面方位と黄金の橋
ところで先ほどお伝えした窮寇勿迫という戦術で御座いますが、これは派生すると三面包囲という作戦に発展致します。
三面包囲とはその名の通り「敵の三方を包囲する」ということ。「前・後ろ・右・左」と四方向あるうち三方向だけを包囲するのです。
当然敵はそこから逃げることが出来るのですが、この作戦の目的は何でしょうか。
この作戦が極めて成功した例として「モヒの戦い」という戦いが挙げられます。
モヒの戦いとは世界最大の領土を誇ったモンゴル帝国とハンガリーの戦いであり、モンゴル軍は三面包囲戦略でハンガリー軍を全滅させました。
モンゴル軍はハンガリー軍を包囲した後、一箇所だけ包囲を解いたのです。これが三面包囲で御座います。するとハンガリー軍はその部分から全力で逃げ出そうとします。
そこにモンゴル帝国は追撃をかけました。「包囲をとく」という逃げ道を与えて上げることでハンガリー軍は死に物狂いで「逃げた」のです。
逃げるということ。それは戦いを放棄したということで御座います。逃げるだけの敵を全滅させることは難しくありません。
つまり私が言いたいのは「万が一、やむにやまれず敵を叩き潰さなくてはいけなくなったとしても、それでもなお追い詰めるな」ということ。
敵を決して死に物狂いでこちらと敵対する状況に追い込んではいけない。
死に物狂いの相手と戦うことは、お互いの壊滅しか終着点が存在しない。
そしてそこまでいってしまったら、敵を一人残らず殺すしかなくなってしまうのです。
相手と戦う時、お互いに死に物狂いになったら完全なる敵対を避けては通れない。
そしてそうなってしまったら最後の一人を殺すまで恐怖で眠れなくなる。
だから最後の一人まで殺してしまう。
なぜなら、一人でも残してしまったらその一人が死に物狂いで復讐をしてくるから。
私が先ほどヴェルサイユ条約に”もし”ドイツ人は全員死刑という条文があったらと書かせていただきましたが、これはこのことを意味します。
もし本気で追い詰めるなら、一人たりとも残してはいけないのです。その残った一人は必ず禍根になり復讐のタネになります。
ですが、復讐も殲滅もそんなことは誰も望んでいません。ですので重ね重ねになりますが、私は「決して人を追い詰めるな」と言っているのです。
絶対に正論で人を追い詰めてはいけない。正論の先に待っているのは、本当に何度目になるかわかりませんが、お互いの壊滅です。お互い全く得をしない。
双方の破滅で得をするのは高みの見物をしている偉そうな武器商人だけ。
そんな自体が望ましいですか?
望ましくないのなら、絶対に相手を追い詰めてはいけません。
他の誰のためでもなく、自分のために正論を振りかざすな、人を追い詰めるな、敵であっても逃げ道を用意しろ、と。
もちろん私だって正論を言いたくなるかたの気持ちがわからないわけではないのです。
この世には、どう考えても正論ではない悪がはびこっているのも間違いありません。
正しいのに、なぜ許されないのか、という気持ちもわかります。
ですが、それは他でもない貴方様自身を苦しめることになります。
だから、どうかやめてください。正論は誰も救わない、味方も敵も自分自身も救わない。
その悪を是正するにしても、その悪を見逃して生きていくにしても、それでも正論を使ってはいけない。
正論を使っていいのは”こちらも多大なるダメージを受けることを理解して、全面戦争になることも覚悟して、それでもなお相手を一人残さず叩き潰さなくてはならない”というときだけで御座います。
例えば”法律”は正論でしょう。
「法律で決まっているから」なんていう正論はこの世に溢れかえっております。
ですが、法律を突き詰めると「死に物狂いの人間」には何の役にも立たないことが判るでしょう。法律は死に物狂いで貴方を殺した人間を裁くことは出来ますが、死んだ貴方様を生き返らせることは出来ません。
私は法律は無意味だ、とか、法律を破れ、と言っているのではありません。法律という正論を盾に人を追い詰めるな、と言いたいのです。紙切れ1枚ではカッターすら防げません。
冗談のようで冗談ではなく、六法全書で死に物狂いの人間と戦うとしたら、中の条文ではなく、厚さ15cm、6000ページを超える六法全書そのものを腹に仕込んでナイフの刃を止めるしかないのです。
ちなみに法律の中にも「黄金の橋」があることをご存知でしょうか?
日本の法律である刑法第169条は中止犯。
つまり、犯罪をしようと思ったものの、途中でやめたら刑を軽くするという法律。
もし、この法律がなければ途中で犯罪を思い留まろうと思っても「どうせ罪が同じならやっちまおう!」となってしまうのですが、この法律があると「ここで止めれば刑が軽くなる」と思い踏みとどまるかもしれない。犯罪者であっても、出来る限り追い詰めてはいけないのです。
これを法律用語で「黄金の橋」と言います。これは先ほどの「モヒの戦い」と同じ理由でつけられた言葉です。
正論戦争
正論は確かに正しいでしょう。
ですが、正論は基本的に大人なら誰もが知っているのです。そうにも関わらず正論がまかり通っていないということは、必ず真っ当ではない理由がそこには御座います。
そこに正論で攻め込むのであれば、それは戦争にしかなりません。
どっちが正しいかなど、どうでもいいのです。
自分の飯が奪われると思えば、正しかろうと間違っていようとも誰もが死に物狂いで戦います。
そうならないためには、必ず”逃げ道”を用意してあげなければなりません。正論は相手の退路を完全に断つ愚策中の愚策で御座います。
それは相手との戦争を避ける時でも、相手を徹底的に叩き潰す場合でも変わりません。
だから他の誰でもなく自分のために、どうか正論で戦うことは避けて頂きたく私は思っております。