人を試してはいけない
「彼に対して「浮気をしてもいいよ」と寛容で度量の広い女を演じる」という方法が「浮気をさせさない方法」として紹介されていました。
ですが私はこの方法には反対します。何故ならばこの方法は「人を試す」ということに他なりません。
この方法は私がわざと落とした100円玉と同じ。浮気をしないように一生懸命自制をしている人間に対し「浮気してもいいよ」と甘言をろうするのは悪魔の所業なのです。
もしも「浮気をしてもいいよ」と言ったにも関わらず、彼氏が浮気をしなかったのであればそれは「悪魔の誘惑を振り切った彼氏」が凄いのであり、それを言った彼女は何も凄くない。ただただ欲望に立ち向かう人間の邪魔をしただけです。
「浮気をしてもいい」と言ったのに「彼氏は浮気をしなかった」
これを「人を試す」と言わずして、何を「人を試す」と言うのでしょうか。
この行動の本質は「相手を信じている」のではなく「これだけ相手の自制心を邪魔したのに、相手は崩壊しなかった」と自分が安心したいだけなのです。
そしてどんなに強靭な精神を持っている人でも邪魔をされ続ければいつかは崩壊してしまいます。だからこそ人を試してはいけないのです。
これは警察で考えると分かりやすいでしょう。
もしも「我々は日本国民を信じているので、もう一切捜査も逮捕もしない!」と言ったら、これまで犯罪をするつもりがまったくなかった人の中にも「え?じゃあ、しちゃおうかな……」となる魔が差してしまう人が現れるのは間違いありません。
ですので警察がもしも国民を信じるとしたら「我々が捜査も逮捕もする状況であれば、彼らは犯罪をしないと信じることが出来る」と言うべきなのです。
「信じる」という行為は、その前提として「自分がこれをしているから」という自分の行動がある。つまり彼氏が「浮気をしない」と信じたいのであれば、彼氏の理性が崩壊しないように努める、少なくとも「彼氏の理性を妨害しない」という努力が必要であると言えるでしょう。
おそらく「何で浮気をする悪人のために女性が頑張らないといけないんだ!」とお怒りになる方もいらっしゃるでしょうが、そういう方は「自分には汚い感情が存在しない」と盲信してしまっているだけに過ぎません。今回の話は男女を入れ替えても全く同じことが言えるのです。
幸運にも奇跡が起きたとき、神に感謝をしても良いでしょう。
しかしだからと言って、奇跡を信じわざわざ無意味に危険なことを行うことが正しいことでしょうか?
本来起きないから奇跡なのです。奇跡に感謝をするならともかく「奇跡が起きることを前提に生きる」などという気の狂ったことをしてはいけません。
人間もまた動物であり、その行動は本能という欲望によって決められています。ですので今日の人間は奇跡的な幸運により「たまたま理性的っぽく行動している」に過ぎません。
ある意味で「人間が理性的に行動している」というのは、すでに奇跡なのです。感謝こそせよ、それを前提に生きることは極めて危険な思想であると私は思います。