【ご質問】
初めまして。私は21歳の大学生です。
突然ですがお通夜や告別式といったお葬式で泣くのは良くないことでしょうか?
先日小さい頃からずっとお世話になっていた伯母が亡くなりました。1年ほど入退院を繰り返し、最期は家族に看取られましたが、わたしはその瞬間に立ち会えず、病院に到着した時はすでに亡くなった後でした。
その時はまだ実感がなかったのかもしれません。寝てるようにしか見えませんでした。
私は小さい頃から人の死に直面すると号泣して過呼吸になってしまうタイプでした。
涙や嗚咽を堪える方法について調べていくうちに、いい年した大人がお葬式で泣くのはどうかという意見や、嗚咽するのはみっともない、もってのほかだという意見が目に入りました。
お葬式で泣くと亡くなられた方が成仏できないとか、喪主の方や主に親族、ご遺族の方が気丈に振る舞っているのに泣くのは失礼だなどという声もあるようです。
そうはいってもやはり伯母がなくなったことを徐々に実感し始めると、溢れ出るもの、胸からこみ上げてくるものを堪えることができませんでした。
本当に大好きで、家族以上に家族のような存在で、感謝しきれないほどお世話になった人だからです。
それなのにわたしは最期に言葉を交わせなくてお礼も言えなくて、そして何より2度と会うことが出来ないと思うと、お葬式が終わった今でも毎晩涙が出ます。
悔やんでも悔やみきれません。また会いたいと思うほど泣いてしまいます。
ただ確かにお葬式の場で涙を堪えて気丈に振る舞う人の目の前でぼろぼろ泣いてしまったら、堪えている人は辛いだろうなと思います。
上野さんはお葬式で嗚咽して泣いてしまうことについてどう考えますか。良くないことだと思いますか。私は良くないことだとは思いたくありませんが、様々な意見を知りたいです。
(今回の回答では便宜上、仏教用語を使用します)
【回答】
御愁傷様です。
葬儀で泣くのは自然な人間の感情ですし、問題もないと私は思います。もちろん、あまりにも大きな声で泣き、式の進行を大きく妨げるような泣き方であれば問題もあるでしょうが、そうではないのならば特に問題があるとも思えません。
きっと故人も自分のために泣いてくれるご質問者様のことを見て、感謝をしていることでしょう。
確かに泣き虫なご質問者様のことを見て、少しばかり不安に思うかも知れませんが、自分の死をこんなにも悲しんでくれる人がいるというのはきっと有難いことであると感じているはずです。
それにもし泣くことでご質問者様の悲しみが少しでも和らぐのであれば、それはきっと故人も喜ばれることでしょう。
もちろん泣いたくらいで全ての悲しみが消えるわけではありませんが、涙を流すことは少なからず悲しみを和らげることに繋がるはず。
それならば涙を流すことに意味はあるのです。
葬式で泣かない方へ
一方で、葬儀で泣かない方にお伝えしたいことが御座います。
きっと故人はそんな立派な姿を見て、安心して成仏出来ることでしょう。
自分の子供は、友人は、自分の死などに屈せずに明日へ向かって歩き出しくれた。
もちろん少しばかり寂しい気持ちもあることでしょうが、それでも強くたくましく生きる皆様のことを見て、きっと安心されているはずです。
もう、大丈夫だ。
自分がいなくとも、彼らは生き抜いてくれる。
そんな幸せを故人は感じていることでしょう。
葬式で泣きたいのに、泣けない方へ
きっと喪主の方が多いことでしょう。自分の親が亡くなった、一番辛い立場であるにも関わらず喪主という重圧から、泣くことが出来ない。そんなお辛い立場にあることと思います。
ですが、故人はきっとそんな貴方様を見て、きっと「強くなったな」「大きくなったな」と安心していることでしょう。
それに特に故人がご両親であったのならば、泣きたいのを我慢している子供の顔なんて簡単に見抜くことが出来るはずです。涙を流さない貴方様のことを「冷たい奴だ」なんて思うはずもありません。涙を流さないだけで、悲しんでいることはきちんと伝わっているはずです。
もちろん、喪主だろうが男だろうが、泣いてはいけないなんていうことはありません。
式の進行のために涙を我慢するのであれば、その強がりは立派なものです。
涙を流すのであれば、故人はきっと有難いと思うことでしょう。
「マナー違反だ」とか「薄情だ!」とか言い出す方へ
色々と言いたいことはありますが、1つだけ。
故人が葬儀中に誰かが言い争うことを望むと思いますか?
誰のための葬儀か
そもそも葬儀というのは故人との別れの儀式であり、最大の目的は遺族や友人が「その人の死を受け入れること」であると私は考えています。
ですので、葬式で泣くことで感情が少しでも落ち着くのであれば、それは泣いたって構いませんし、泣かなくたって構いません。
先ほど私は「死人に口なし」と言わんばかりに、故人の思いをコロコロと変えてお伝えさせて頂きましたが、言葉なんていうものは手段に過ぎないのです。
大事なのは最終的な目的。
先ほど私は最大の目的を「葬儀の目的はその人の死を受け入れること」と言いましたが、きっと故人もその思いを持っていることでしょう。
ですので「その人の死を受け入れる」という目的のためなら、手段なんて重要ではありません。伝えたい思いは「死を受け入れて、元気に明日を生きて欲しい」ということで一致していますが、その「思い」を適切に伝えるために言い回しや表現は各々によって変える必要があるでしょう。
だから、私は泣いている方には「泣くことで故人も喜んでいる」と言いますし、毅然としている方には「毅然としていることで故人も喜んでいる」と言います。
それがその人にとっての「死を受け入れる手段」であるのならば、どのような手段でも構いません。ただただ想いは「私の死を乗り越えて、明日を元気に生きて欲しい」というものだけ。その願いを達成するのであれば口八丁手八丁、コロコロ言い回しは変えるのです。
しかし、世の中には、泣いている人に「毅然としていることで故人は喜ぶ」と言い、毅然としている人に「泣くことで故人も喜ぶ」と言う方がいらっしゃいます。たいていの場合、悪意があるわけではなく「ルールを守ることが目的になっているだけ」なのですが、困ったことに変わりはありません。
泣いてたら、心配で成仏できないよ?
少し話は脱線しますが、ご質問文にあった「泣いていたら、心配になって成仏できないよ」という言葉について考えて見ましょう。
少なくとも仏教や神道ではそんな決まりは聞いたことがありません。またキリスト教やイスラム教のような宗教であれば「故人の生前の行い」で天国が地獄かが決まるので、遺族が泣こうが泣かなかろうが、地獄か天国かのどちらかに連れていかれます。
それでは、このフレーズは一体どのような理由で登場したのでしょうか?
これは推測に過ぎませんが、おそらく「葬式が終わってからもいつまでも落ち込んでいて一向に元気にならない人」を元気付けるために作られた言葉なのだと思います。いつまでも故人のことを引きずって自分の人生を蔑ろにしている人を見かねた誰かがこの言葉を作り使ったのでしょう。
ですのでこの言葉もその本質には「その人の死を受け入れて、元気に明日を生きて欲しい」という思いによる言葉で御座います。
この言葉で落ち込んでいた方が「じゃあ、頑張って前を向いて歩かなくっちゃ!」と元気になるのであれば、この言葉は目的をしっかりと達成したということ。その言葉が宗教的に真実かどうか、科学的に真実かどうか、なんていうことは極めてどうでもいい問題です。
重要なのは、この言葉が「落ち込んでいる人を励ますという目的で」作られた言葉であるということ。
もちろんこれは私の推測に過ぎませんので間違っている可能性もありますが、少なくともこの言葉が「葬儀中に泣くことを弾圧するため」に作られた言葉であると私には思いません。
誰かを元気にすることが目的であり、誰かを弾圧するために作られた言葉ではないのではないのです。
いつまでも泣いているなら
私は葬式で泣くことが悪いことだとは思いません。
「堪えている人もいる!」という意見も分からなくもありませんが、これは「ダイエットをしている人の前でチョコレートを食べるな」というような意見に近いものを感じます。
確かにわざわざダイエットをしている人のところに行って、当てつけのように食べるのはどうかと思いますが、そうではないのならば特に言及されるような内容でもないでしょう。
何よりも重要なのは、まだ生きているご質問者様が伯母様を受け入れて、明日に向かって生きること。
ですのでもし、伯母様が亡くなって1月経っても2月経っても、ご質問者様が落ち込んで前に進めていないのであれば、その時は私からこう言わせて頂きましょう。
そんなんじゃ伯母様は貴方のことが心配で成仏できませんよ?と。