【ご質問】
はじめまして。
私は現在、関東近郊の実家から都内の大学にかよっている学生です。
しかし、門限が厳しく、たとえ好みの男性とバーなどでいい雰囲気になっても11時には家に向かって出発しなければならず、朝帰りなんてもってのほかです。けれど、正直そういう関係を持ってみたくて……。いったいどのようにすればいいのでしょうか?
【母親という気の狂った生き物】
ご質問誠に有難う御座います。
”そういうこと”をするからと言って、朝帰りをする必要も御座いません。
BARで会い良い雰囲気になった男性と連絡先でも交換して休みの日に朝からデートをすれば良いのです。
という具体的な解決策は今回のご質問者様の本質的な悩みを何一つ解決しないことでしょう。
確かにご質問者様の「そういう関係を持ってみたい」という悩みだけを解決するのであれば先のような回答で十分かもしれません。しかし、今回はもう少し踏み込んで、ご質問者様が今抱えている本質的な問題について回答させて頂ければと思います。
さて、そもそも論になりますが今回のご質問者様のご両親様はいったい何故「門限」を決めているのでしょうか?
色々と理由を考えればキリがありませんが、突き詰めれば「娘が心配」という一言に尽きるでしょう。
良いか悪いかは別にして大学という場所は性において物凄く奔放な空間です。両親からすれば大事な一人娘を性の野獣のような男がたくさんいる場所に行かせるのが不安で仕方がない。門限を決めているのはそんな理由があるのでしょう。
しかし、もし本当に貞操を守りたいのであれば今の世の中において門限なんていうものを決めたところであまり意味は御座いません。
なぜなら先ほど私がお伝えしたように、それこそ朝早くからデートをしてランチの後、お昼頃からラブホに入ってしまえば門限なんていうものを一切破らずに”そういうこと”をすることが可能だからで御座います。もし本当に貞操を守らせようと思ったら監禁するくらいしか方法はないのです。
さて、今回のご質問者様のように「門限」についてお悩みの方からのご質問は少なくなく、令和になった今日であっても「門限制」を適用している家が多いのだと感じます。
そもそも、箱入り娘というような文化が成立していた要因には間違いなく「お見合い文化」が御座いました。娘が家から一歩も出なくとも結婚相手を必ず斡旋することが出来る時代であったからこそ、門限を課していても問題なかったので御座います。もっと言えば結婚相手が許嫁として決まっていたからこそ、それ以外の異性と遊ばないように門限を課す必要があったのでしょう。
しかし、恋愛結婚が主流の今日。それどころか結婚しなくても幸せになれる時代で御座います。
門限はもはや現代において存在意義を失ったルールと言っても過言ではありません。
お父様、お母様。
ご質問者様はすでに大学生なのです。一体いつまで門限の厳しい箱入り娘にしておくおつもりでしょうか?
百歩譲って、お見合い結婚の相手をいくらでも斡旋できる能力を持っているならばまだしも、そうでないのなら確実に娘さんは結婚のレースにおいて遅れを取ることでしょう。
確かにこの世界には「悪い虫」と呼ばれるような男がたくさんいることは間違い御座いません。
しかしだからと言って、悪い虫から隔離するのではなく、そういう虫の扱いを経験させるという方がずっと現代に即していますし、教育であると言えると思います。
ナイフを禁止にするのではなく、ナイフの使い方を教えることが重要でしょう。
残念ながら今日では「悪い虫がつかないようにする」という教育方針は極めて時代遅れになってしまっていると言わざるを得ません。
という意見が通じることはない
と門限文化が間違っているという意見を述べさせて頂きましたが、この意見でご質問者様のご両親様が教育方針を変える可能性は限りなく0に近いでしょう。
通じるわけがないのです。
そもそも私の意見だけが正しいなんてことはあり得ませんし、仮に私の意見が100%正しかったとしても、それでもなお人は意見を変えたりは致しません。
確かに私はご質問者様の物の考え方に同意をしております。BARで仲良くなった男性と”そういうこと”をしたいというお気持ちも判りますし、今の時代の状況を考えれば、そこで”そういうこと”をすることは全くもっておかしなことだとも思いません。
むしろ、結婚するまで処女という方が今日の社会情勢を考えればずっとレアでしょう。しかも「レア」だからと言って、そのことにそこまで価値があるともあまり思えません。
ですが、そんな論理など今回のご質問においては少しも重要ではありません。
両親は、特に「母親」という生き物は
気が狂っているのです。
母親という気の狂った生き物
「死ぬ気で頑張る」という言葉を私は信用しておりません。
特に男が口にする「死ぬ気で頑張る」には少しの価値も存在しないとすら思っています。
もちろん極めて稀に価値のある「死ぬ気で頑張る」も御座いますが、ほとんどの場合においては「死ぬ気で頑張る」には何の価値も御座いません。「死ぬ気で頑張る」と言っておきながら、翌日には不満をダラダラと述べるのが人間という生き物でしょう。
しかし唯一、母親が自分の子供に対して感じてる「死ぬ気でこの子のことを守る」という感情だけは、少しの疑いも持つことなく私は信用しております。
たとえ100年連れ添った男女であっても、どちらかが不貞を働ければ1日で崩れ去ってしまうのが男女の愛情です。
たとえ100年仲良くしていた友人でも、金の貸し借りをすれば1週間で崩れ去ってしまうのが友人の信頼です。
しかし、母親の愛情。
何もお礼もできない私たちに無限にも思える愛情を注いでくれる異常ともしか言えない存在。
最初の5年ほどは何もできない自分を守ってくれて
次の10年は何もできない自分を育ててくれて
その次の5年は反抗する自分を叱ってくれて
それでも愛してくれる気が狂った生き物です。
子供が何度裏切り、愛情を無下にし、金を自分の財布から盗み、暴力を振るい、暴言を浴びせ。
期待を裏切り、堕落し、手を抜き、遊び。
それでも期待し、手助けをしてくれ、心配してくれる。
人間は生物ですので、通常は自分の身体の安全と維持を優先するものですが、母親という生き物は自分の子供のためになると思えばためらうことなく自分の命を投げ出す。
この愛情を気が狂っていると言わずして一体何を気が狂っていると呼べばいいのでしょうか。
この常軌を逸した愛情と覚悟をどうやって疑えばいいのでしょうか。
そして、その気の狂った愛情の有り難さに子供が気がつくのはいつだって遅すぎる。
この気狂いじみた愛情に、自分が何も報いていないと後悔するのは、いつだって”報いることができなくなってから”なのです。
私がとても好きな言葉を1つご紹介させて頂きます。
親にとって子供はいつまでも子供である。たとえ、子供が白髪になっても
ジャネットリー
母親という気の狂った生き物は、こんなにも迷惑をかけまくり、具体的には何のお礼もできない自分の子供のことを死ぬまで自分の子供として愛してくれるのです。
「男と女のどっちが強いか」という議論は古今東西を問わず行われてきたかもしれませんが、「母親」という気の狂った化け物じみた猛者を擁する女性に男が勝てるわけもありません。
男の方が強かった時代なんて一度もなかったことでしょう。母親という化け物に男は決して勝つことが出来ない。
そんな猛者に私が何を言ったって勝てるわけがないのです。
ただ100%善意の愛情で、自分の娘のことを心配して門限を決めている。
もちろん父親だって、母親ほどではないにしても同じです。
そんな両親に対して、そこらへんにいるただの男である私が何を言ったって言葉の重みが違いすぎる。
絶対に説得できない自信が私には御座います。
こんなにも人を愛し、自己犠牲の精神で尽くすことができる化け物。
本来「自分勝手な生き物」である人間という生物の常識から完全に外れた存在。
子供がどれだけ「恩を仇で返しても」少しも懲りないばかりか、それまでと変わらない愛情を注ぐ気の狂った存在。
こんな異常で、強固で、利己的な生き物であるはずの人間とは思えない関係が母と子の関係以外の一体どこにあると言うのでしょうか?
今すべき親孝行
しかし、私では説得することが出来なくとも、そんな母親の子供であるご質問者様であれば出来ることはあると私は思います。
ズバリ親孝行をしましょう。
親孝行は早すぎるということもなければ多すぎるということもありません。
そして今回、私がご質問者様にオススメしたい親孝行は「私はあなたの手から離れても生きていける」と親の保護を断ち切るという親孝行で御座います。
母親という生き物は、放っておくと死ぬまで子供の面倒を見てしまう生き物です。
それは子供の自立ということを考えれば間違っている行動なのですが、正しいとか間違っているなどどうでもいい話。
100%善意の愛情で、子供からすればこの上なく有り難い善意の気持ちで母親は子供の面倒を止めることが出来ないのです。
だから、その関係に終止符を打ってあげる。
我々がこうして今日まで生きることが出来ているのは、母親が、父親が、論理や合理性で考えれば常軌を逸している愛情を私たちに注いでくれていたからということに疑いの余地は御座いません。
そしてこのまま放っておくと両親は死ぬまで子供に対して愛情を注ぎ、労力をかけ、時間を使い、心配をし、守ろうとしてしまうのです。
非常に穿った言い方をすれば「子育て中毒」であると言えるでしょう。
自分の子供のことを愛していて、自分の子供のことが心配で心配で、そして子供の幸せのためなら自分の命くらい平気で投げ捨ててしまう。
そんな、どこまでも非論理的で非合理的で「ただあなたが幸せでいてくれればいい」という言葉を心の底から言うことができる気が狂った存在。
いつかは子供を巣立たせなくてはいけないと母親も分かっていますが、それでも「明日でいいや」「まだ心配だ」と永遠に巣立たせることができない。
だから、雛鳥の方から巣立たなくてはいけません。
「これまで有難う御座いました。もう大丈夫だよ」と。
母親は間違いなく「あの子はまだまだ子供だから、私が面倒を見なくちゃいけない」と言いますが、その制止を振り切る。
それこそが子供の立場からできる親孝行の1つではないでしょうか?
母親は、父親は、それこそご質問者様が30歳になろうとも40歳になろうとも「あの子はどこか抜けているから心配だ」と言うもので御座います。
親は子育てを子供の人生を心配することを自ら止めることは死ぬまで出来ません。
ですので、子供がそれを終わらせなくてはいけない。
もう自分は大丈夫だ、と鎖を断ち切らなければいけないのではないでしょうか。
親の庇護を断ち切り、自分の足で立つ。
それでも世話をしようとする両親に対して「有難う。もう、大丈夫だよ」と伝え、鎖を断ち切る。
もし、それが出来ないのであれば、自分の力で親の庇護を断ち切れないのであれば、門限のない自由はまだ早いのかもしれません。
もちろん、世の中にいる母親の中には、自分の子供に対して愛情を持ってない方もいらっしゃいます。
そんな親を持ってしまった方からすれば、今回のコラムは非常に不快なものだったかもしれません。
ここにお詫び申し上げます。