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正論は正しいけど、正論を振りかざすの正しくない

【ご質問】

初めまして。

会社に入ってから「そんな正論じゃ通用しないよ」と言われることが非常に多いです。

「正しいことだけじゃ通用しない」という理屈は分からなくもないですが、どうして正論はダメなのでしょうか?

【回答】

ご質問誠に有難うございます。

今回はご質問者様に「正論」とは何か、ということをお伝えさせて頂ければと思います。

さてそれでは早速話は脱線しますが第二次世界大戦について少しお話をさせて頂きましょう。

第二次世界大戦の原因

皆様は第二次世界大戦の原因が何かご存知でしょうか。

もちろんヒトラーがナチスを結成し、ポーランドに侵攻したというのは事実で御座います。これに対してイギリス・フランスがナチスに宣戦布告したというのが第二次世界大戦の開戦の流れであることは間違い無いのですが、それではそもそも一体なぜ「ドイツがポーランドに侵攻したのか」ということを考えると、その原因はヴェルサイユ条約に行き着くことでしょう。

ヴェルサイユ条約とは第一次世界大戦を終結させた条約であり、その内容は過酷としか言えないものでした。

「ドイツを絶対に許さないし絶対に再起させない条約」と言えば条約の内容の9割の説明がつきます。ちなみに残りの1割は「世界から戦争をなくす条約」なのですが、その後の歴史を見れば、ほとんど役にも立たなかったことは明らかでしょう。

さて、そんな「ドイツを死んでも許さない条約」ことヴェルサイユ条約でございますが、具体的にどのくらい絶対に許さない内容だったかということが如実にわかる事実を一つお伝えさせて頂きます。

1919年に調印されたヴェルサイユ条約で、ドイツは多額の賠償金を”外貨”で支払うことになりましたが、2018年現在でもその支払は厳密にはまだ終わっていない(ただし請求されていないので、2010年以降支払っていない)のです。

端的に言ってやりすぎました。あれから99年経っているのにまだ支払いが終わっていないのです。

この条約の結果ドイツ経済が壊滅。歴史の教科書でよく見かける「パンを買うためにお札をトラックに積む」ような状況になってしまったのです。

そのためドイツ国民は明日のパンのために死に物狂いになりナチスドイツを生むことになりました。

歴史に「もし」はありませんが、”もし”ヴェルサイユ条約がもう少し甘い条約であったなら、第二次世界大戦は起きなかったかもしれません。

逆に”もし”ヴェルサイユ条約の条文に「ドイツ人は無条件で全員殺す」という一文があったら、良し悪しはともかくとして、それはそれで第二次世界大戦は起きなかったかもしれません。

窮寇勿迫

それでは今回の本題に入りましょう。

今回のテーマはズバリ「窮寇勿迫」で御座います。これは「きゅうこうぶつはく」と読み、孫子の兵法に登場する言葉。

「追い詰められた敵を攻めるな」という意味で御座います。

一見すると「可哀想だから追い詰めるな」という意味にも思えますが、そんな甘い言葉では御座いません。この言葉の意味は「追い詰めすぎると、色々とろくなことがない」という自分のための言葉で御座います。

ドイツの例が判りやすいでしょう。ドイツはそもそも第一次世界大戦で敗北し、十分に追い詰められておりました。

そこに決定的な追い討ちをかけるヴェルサイユ条約で追い詰めるとどうなるか。そんな約束は完全に反故にされ、再び戦争を仕掛けれるのです。

ちなみにこのヴェルサイユ条約で厳しい処分を下すことに反対していたのが、イギリス首相のロイド・ジョージ。

余談ですが私が個人的に一番好きな政治家で御座いますので、もしよければ名前くらい覚えて頂けると大変嬉しく思います。

さて「窮鼠猫をも噛む」と言いますが、ネズミにしても人間にしても追い詰めると相手は死に物狂いで戦いを仕掛けてくるのです。「そんな状況になっても誰も得をしないので、決して弱っているものを追い詰めるな」というのが窮寇勿迫の真の意味なのです。

正論にはこの恐ろしさが御座います。

そもそも正論なんて、大人なら誰でも知っているのです。

そうにも関わらず正論がまかり通っていないという場合、そこにはどう考えても”真っ当”ではない事情が存在するのです。

確かに真っ当ではないとは言え、事情があることは間違い御座いません。

その事情を鑑みない恐ろしさが正論には御座います。

【例えばツイッターなどではよく「残業代をしっかりと払い、福利厚生をしっかりすれば業績が向上する。それをしたら潰れる企業はそもそも潰れるべき」みたいな「正論」が御座いますが、間違いなく正論でしょう。

全くもって正論で御座いますね、そんな企業は潰れるべきでしょうね。ですがそれならば契約関係なのですから、その会社をやめれば良いではないですか。

ブラック企業の労働者がいなくなれば、ブラック企業は倒産します。

それならばどうして辞めないのでしょうか?

辞めない皆様こそがブラック企業を助長させている加害者ですらないのでしょうか?】

 

この【】内の文章こそが相手を叩き潰す正論で御座います。

普通の大人は「日本のブラック企業が簡単に福利厚生を充実させるなんてことは出来ないということを知っているけど、日々の生活が辛いからせめてネットでは自分の会社の悪口を言わせてくれ」と思って「福利厚生残業代をしっかりしろ!」と言っているのです。

それを私が【】の正論で叩き潰してしまったら、そんなもの全力で私に食ってかかってくるに決まっているではありませんか。どっちが正しいとか、どっちが正論とか、そんなことはどうでもいいのです。

ブラック企業を潰せ!という内容を「正論」で主張したら、ブラック企業の経営者の皆様が「死に物狂い」で社員と敵対します。

逆に「ブラックにいる社員が悪いんだ!」という内容を「正論」で主張したら、今度はその社員の皆様が「死に物狂い」で戦いを仕掛けてくる。

私は別にどちらの肩を持つわけではないのですが、どちらにも「相手を正論で追い詰めるな」と言いたいのです。

仕事ですからお互いに多少戦うのは仕方がありませんが、正論で相手を追い詰めてはいけない。

正論は相手の逃げ道を奪い、死に物狂いにさせてしまう愚策です。

そんなことをしても誰も何も得をしない。待っているのはお互いの壊滅で御座います。

正論を振りかざし、相手を追い詰めていいのは、相手を全面戦争で徹底的に叩き潰す予定の時だけ。

敵を一人残らず殺すつもりなら、正論を振りかざしても良いでしょう。

例えば同じく第二次世界大戦の中で、1942年に日本がアメリカとの戦争に突入した原因は「ハルノート」というコーデル・ハルという政治家が提案した交渉が決定的でした。

これは正論かどうかはともかく日本を徹底的に追い詰める内容でしたが、そもそもアメリカは「日本が追い詰められて、アメリカに攻撃を仕掛けること」を望んでいたからこそ、この追い込みを行ったのです。

逆に太平洋戦争後の統治がヴェルサイユ条約と比較すれば極めて甘かったのは「追い詰めると何をしでかすか分からない」ということをきちんと理解していたからではないでしょうか。

冷戦という事情もありましたが、それでも追い込みすぎはダメということを歴史から理解していたのだと思います。

繰り返しになりますが、正論は相手の逃げ道を潰し相手を死にものぐるいにさせる愚策中の愚策です。相手を潰すことが出来るかもしれませんが、こちらもまた多大な被害を被ることを避けては通れない。それどころかこちらが壊滅的な被害を受けて叩き潰されてしまう可能性だって十分にあるのです。

三面方位と黄金の橋

ところで先ほどお伝えした窮寇勿迫という戦術で御座いますが、これは派生すると三面包囲という作戦に発展致します。

三面包囲とはその名の通り「敵の三方を包囲する」ということ。「前・後ろ・右・左」と四方向あるうち三方向だけを包囲するのです。

当然敵はそこから逃げることが出来るのですが、この作戦の目的は何でしょうか。

この作戦が極めて成功した例として「モヒの戦い」という戦いが挙げられます。

モヒの戦いとは世界最大の領土を誇ったモンゴル帝国とハンガリーの戦いであり、モンゴル軍は三面包囲戦略でハンガリー軍を全滅させました。

モンゴル軍はハンガリー軍を包囲した後、一箇所だけ包囲を解いたのです。これが三面包囲で御座います。するとハンガリー軍はその部分から全力で逃げ出そうとします。

そこにモンゴル帝国は追撃をかけました。「包囲をとく」という逃げ道を与えて上げることでハンガリー軍は死に物狂いで「逃げた」のです。

逃げるということ。それは戦いを放棄したということで御座います。逃げるだけの敵を全滅させることは難しくありません。

つまり私が言いたいのは「万が一、やむにやまれず敵を叩き潰さなくてはいけなくなったとしても、それでもなお追い詰めるな」ということ。

敵を決して死に物狂いでこちらと敵対する状況に追い込んではいけない。

死に物狂いの相手と戦うことは、お互いの壊滅しか終着点が存在しない。

そしてそこまでいってしまったら、敵を一人残らず殺すしかなくなってしまうのです。

相手と戦う時、お互いに死に物狂いになったら完全なる敵対を避けては通れない。

そしてそうなってしまったら最後の一人を殺すまで恐怖で眠れなくなる。

だから最後の一人まで殺してしまう。

なぜなら、一人でも残してしまったらその一人が死に物狂いで復讐をしてくるから。

私が先ほどヴェルサイユ条約に”もし”ドイツ人は全員死刑という条文があったらと書かせていただきましたが、これはこのことを意味します。

もし本気で追い詰めるなら、一人たりとも残してはいけないのです。その残った一人は必ず禍根になり復讐のタネになります。

ですが、復讐も殲滅もそんなことは誰も望んでいません。ですので重ね重ねになりますが、私は「決して人を追い詰めるな」と言っているのです。

絶対に正論で人を追い詰めてはいけない。正論の先に待っているのは、本当に何度目になるかわかりませんが、お互いの壊滅です。お互い全く得をしない。

双方の破滅で得をするのは高みの見物をしている偉そうな武器商人だけ。

そんな自体が望ましいですか?

望ましくないのなら、絶対に相手を追い詰めてはいけません。

他の誰のためでもなく、自分のために正論を振りかざすな、人を追い詰めるな、敵であっても逃げ道を用意しろ、と。

もちろん私だって正論を言いたくなるかたの気持ちがわからないわけではないのです。

この世には、どう考えても正論ではない悪がはびこっているのも間違いありません。

正しいのに、なぜ許されないのか、という気持ちもわかります。

ですが、それは他でもない貴方様自身を苦しめることになります。

だから、どうかやめてください。正論は誰も救わない、味方も敵も自分自身も救わない。

その悪を是正するにしても、その悪を見逃して生きていくにしても、それでも正論を使ってはいけない。

正論を使っていいのは”こちらも多大なるダメージを受けることを理解して、全面戦争になることも覚悟して、それでもなお相手を一人残さず叩き潰さなくてはならない”というときだけで御座います。

例えば”法律”は正論でしょう。

「法律で決まっているから」なんていう正論はこの世に溢れかえっております。

ですが、法律を突き詰めると「死に物狂いの人間」には何の役にも立たないことが判るでしょう。法律は死に物狂いで貴方を殺した人間を裁くことは出来ますが、死んだ貴方様を生き返らせることは出来ません。

私は法律は無意味だ、とか、法律を破れ、と言っているのではありません。法律という正論を盾に人を追い詰めるな、と言いたいのです。紙切れ1枚ではカッターすら防げません。

冗談のようで冗談ではなく、六法全書で死に物狂いの人間と戦うとしたら、中の条文ではなく、厚さ15cm、6000ページを超える六法全書そのものを腹に仕込んでナイフの刃を止めるしかないのです。

ちなみに法律の中にも「黄金の橋」があることをご存知でしょうか?

日本の法律である刑第169条は中止犯。

つまり、犯罪をしようと思ったものの、途中でやめたら刑を軽くするという法律。

もし、この法律がなければ途中で犯罪を思い留まろうと思っても「どうせ罪が同じならやっちまおう!」となってしまうのですが、この法律があると「ここで止めれば刑が軽くなる」と思い踏みとどまるかもしれない。犯罪者であっても、出来る限り追い詰めてはいけないのです。

これを法律用語で「黄金の橋」と言います。これは先ほどの「モヒの戦い」と同じ理由でつけられた言葉です。

正論戦争

正論は確かに正しいでしょう。

ですが、正論は基本的に大人なら誰もが知っているのです。そうにも関わらず正論がまかり通っていないということは、必ず真っ当ではない理由がそこには御座います。

そこに正論で攻め込むのであれば、それは戦争にしかなりません。

どっちが正しいかなど、どうでもいいのです。

自分の飯が奪われると思えば、正しかろうと間違っていようとも誰もが死に物狂いで戦います。

そうならないためには、必ず”逃げ道”を用意してあげなければなりません。正論は相手の退路を完全に断つ愚策中の愚策で御座います。

それは相手との戦争を避ける時でも、相手を徹底的に叩き潰す場合でも変わりません。

だから他の誰でもなく自分のために、どうか正論で戦うことは避けて頂きたく私は思っております。

14 Comments

匿名

途中まで感心して読んでいましたがブラック企業を非難するのは悪手だと正論をかざした所で読むのを止めました

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匿名

ためになりました
ネットだと匿名で正論を振りかざせますもんね…
相手がどう受け取るかお構いなしに

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匿名

相手が退職直前にも関わらず真っ当な引継ぎをしない社員だったり、職務を何の相談もなく投げ出すような社員だったりした場合、逃げられる前に正論で徹底的に追い詰めなければならないと思いますが、いかがでしょうか。

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匿名

非常に興味深く読ませていただきました。わたしも以前、何故正論はダメなのだろうかと考えたことがあります。
私なりの結論は、正論は平等。友人に対しても、友人の敵に対しても。友人関係においては友人の肩を持つべきなので、正論は適切でない。でした。
あと、正義論とかの宿命なのですが、現状への批判ないし批判を基礎とした論になりがちだということも疎まれる原因だとも思いました。
でも、なるほど、相手を追い詰めるとろくなことはないというのも、ほんとうにそうですね。人は図星をつかれると怒りますから。

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Hiroyoshi Tanaka

ハーグ陸戦協定の基本的な考え方ですね。
相手を追い詰めすぎるな。追い詰めると、逆に、統治者が個人的な地位を守るために和平が遅れてしまうので、ほどほどにしておけと言われてます。残念なことに、今では、見向きもされてませんが。

個人的には正論と言っても、論理的に正しいだけで、裏には何らかの感情が隠れていると思います。ブラック企業については、おっしゃられているようなことがあるのでしょう。私だけかも知れませんが、一面だけを指す正論に別の正論を合わせるようにしてます。
ブラック企業を言うならブラック社員だっていますよ。ろくに働かないで給料だけとっていく連中のことです。こういう奴らがいるから仕事が進まない(残業代目当てにしている連中を含む)。それを合わせると、意外と、感情的には落ち着くことが多いです。

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匿名

> 途中まで感心して読んでいましたがブラック企業を非難するのは悪手だと正論をかざした所で読むのを止めました

分かる。それ言い出したら結局無法地帯を許す事になるし、現に死人が出てるのを看過する事になる。
殲滅するしかない。

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匿名

正論は相手を思考停止させ、戦う以外の選択肢を奪う。
1※の行動がそれを如実に表しているね

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匿名

正論を言うなっていう正論を振りかざしてませんか?
もうすでにコメントの中であなたを敵視している方もいますよ?
「こういう正論記事を書くとこうなる、反面教師にしよう」という話でしょうか

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昼寝する猫

とても為になったです。
もう少し読もうとリンクみてみたら。
偽証罪に飛んだみたいです。
中止犯の話は(刑法43条但書)
ってなってるみたいです。

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のんの

正論を武器にするやつは正しくない、ってやつですね。
物事には多面性がありますしね。
まともに引き継ぎしない、とか投げ出すよな社員って
正論叩きつけても通じないこと多いです。
そういう人にはそういう人なりの「正論」があるので。すごく身勝手な言い分だな と思ったことあります。
でも相手から見たらこちらがおかしい、ってなってた。

「簡単にできる人ややれる人がやる、それが正しい。できない僕やりたくない僕がやらされるのはおかしい」になってました。
大多数の真面目な社員がそれでも「自分の仕事しろ」と責めた結果 ウツ 引きこもりになり
傷病手当申請、自殺未遂、です。

働かせたかったら「正論」を武器に選んでも
通用しない輩は 沢山います。
物事には多面性があるのでどこからみても
「絶対正義」となる事って本当に滅多にないと思いました。
逆に共通の「絶対正義」があれば世界は過激な戦争を
しなくなるのかもしれないなぁと思いました。

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無明寺

真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。

我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。

《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。

《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。

《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』

然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)

【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。

【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。

《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

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