「俺、実は〇〇商事なんだよね」
「東大なんですよ」
「俺、年収1000万円なんだよね」
「会社」
「学歴」
「年収」
男性は何かとつけて自分の自慢をする生き物で御座いますが、男性は一体なぜ肩書きを自慢するのでしょうか?
もちろん、世の中には肩書きに弱い女性もおりますので、肩書き自慢が恋愛面で功を奏す場合も御座います。
ですが一般的には肩書き自慢は恋愛において逆効果。
特に「俺、昔悪かったんんだよね」という「悪かった自慢」はまず間違いなく成功しない最悪の手段でしょう。
それでも男性が肩書き自慢をするのは一体なぜでしょうか?
「人にされて嫌なことを相手にするべきではない」論が人をダメにする
皆様も人生で1度くらい「人にされて嫌なことは相手にしてはいけない」という理屈を聞いたことがあることと思います。
両親からそう習った方もいれば、小学校の道徳の授業で習ったかたもいらっしゃることでしょう。
この考えが完全に間違っているとは申しませんが、この考え方は多様性を完全に否定した考え方であると言わざるを得ません。
そういう意味では多様性に乏しかった自体においてはこの考えで問題がなかったのでしょう。ですが多様性が叫ばれる時代において、この考え方は美徳であるばかりか、人に迷惑をかけかねない危険思想ですらあると言えます。
「人にされて嫌なことは相手にもしない」という言葉は、言い換えると「人にされて嬉しいことは相手にしても良い」というものになるでしょう。
例えば、人から罵倒されることが大好きなドMの方がいたとします。
ドMな彼にとって人にされて嬉しいことは「人から踏んでもらうこと」
逆に人にされて嫌なことというのは「丁重に扱われること」
それでは彼が「人にされて嫌なことは相手にもしない」という言葉を実践したらどうなるでしょうか?
彼は「自分がされて嫌なこと」である「人を丁重に扱う」ということをしなくなってしまうのです。
逆に「人にされて嬉しいこと」である「人を踏む」ということを実践してしまうことでしょう。
この例は極端にしても、世の中の人間関係の問題の多くにはこの考えが横たわっているのは間違いありません。
例えばセクハラに対して「別にそれくらい良いじゃん」と仰る男性がいらっしゃいますが、これもまた「人にされて嫌なことは相手にもしない」問題があるのです。
というのもセクハラをする方は基本的に相手からセクハラをされても何ともないのです。
例えば「恋人いるの?」と相手に聞く方は、相手から「恋人いるの?」と言われても何とも感じません。
その方の中では「恋人いるの?」という質問は痛くもかゆくもない挨拶程度のものなので、相手に気軽に言ってしまうのです。
このように人間は何事に関しても「自分基準」で考えてしまう傾向があると言えるでしょう。
「自分がされて嫌なことなのだから、相手もきっと嫌なはずだ」
「自分がされたら嬉しいから、相手もきっと嬉しいはずだ」
しかしこの考えはあまり正しいものではありません。
悲しいツボは人によって違いますし、喜ぶツボだって人によって全く違うのです。
だからこそ私たちは「人にされて嫌なことは相手にもしないようにしよう」
ではなく
「相手がされて嫌なことを相手にしないようにしよう」
というように主観を分離させて考えなくてはなりません。
「人にされて嫌なことは相手にもしない」というのは、現代においては美徳でないばかりか、むしろ危険思想ですらあることを理解する必要があるでしょう。